★ 名称は、 大化改新以後に施行されたという「条里」の遺構もあり、相当に古くより、この地が存在していたことは想像される。 又、「三箇牧」という名称も、「上牧」・「中牧」・「下牧」の名が存在していることからも想定して、平安期には、藤原貴族の「荘園」として、牧場が存在していたものとも思われる。 伝説的には、太古はこの地までは海水が入り込む状況で、沿岸には、多くの松があったとのこと、この松材を使用して、「長柄橋」が作られ、その柱の出荷地がこの地ということから「柱本」とされたと伝わる。 史実的には、「台記」という書に、久安4年(1149年)3月21日条に「宿柱本邊」とあり、藤原頼長が高野山参詣の帰路、ここに一泊したとされている。 又、「山槐記」には、治承4年(1181年)7月22日条に「於柱本又尋少船」の語が記載されている。 こうしたことから、平安・鎌倉期には、「柱本」の名称が存在していたことは間違いがないことであろう。 更に「太平記」にも、元弘2年(1333年)5月17日に、楠木正成が足利幕府に反抗し京にむかって出陣することが「同20日、京都ヲ立テ、尼崎・神崎・庄松の邊リニ陣ヲ取テ」とあり、この庄松は多分柱本ではないかと史家は評している。 幕府は、この楠木軍に防戦するために、「六波羅探題」の軍をこの地に派遣して「砦」を構築したようで、この「砦」名が、「柱本古図」に残っていることである。 尚又、永徳3年(1383年)5月28日の「足利義満寄進状」によると、「寄進宝憧寺鹿王院 摂津国柱本堀跡散在名田畠事云々」とあり、この地の者が寄進したことを記している。 永禄2年(1558年)「鳥養宗慶書状」にも「三島江・柱本ヨリ落候水之儀云々」とあって、「柱本」の名称が連綿と続いて使用されていたことは明白な事実である。 江戸・明治期には 「摂津国島上郡」となり、高槻藩高槻組に所属、村高は「摂津高改帖」によると、天和2年(1617年)では、814石余・「摂津草高帖」ニは817石と記されている。 文禄3年(1594年)の「検地帖」では、814石とされている。 明治4年(1872年)に大阪府に所属、同9年(1877年)の調査によると人口は、492人とある。 明治23年(1880年)、反別は82町余。田が60町、畑が2町余で宅地が4町余、荒地が8町余、その他7町余と報告されている。 戸数は、122戸・牛20頭・川舟30叟・米、麦、菜種、綿を栽培兼商9戸・兼工・兼漁9戸と報告されている。 明治以降 村の様子も大きな変化はなく、依然として洪水の不安に悩まされ続き明治元年(1868年)・明治29年(1897年)・大正6年(1918年)更に昭和28年(1953年)の被害は甚大なものであった。 同30年代になり、ダム建設・川底の掘削・堤防の拡張などが施工され水難の害は、ようやく解消されたのである。 そのかげにある、先輩各位のご苦労は、次代にしっかりと伝授すべきであろう。 府道大阪〜高槻線の開通・昭和40年(1865年)の府営、公社の団地が誘致、同42年(1967年)市水道、更に同48年〜60年にかけ淀川新橋が開通、160世帯・団地、新興地2,500世帯の柱本が出来上がってきたのである。 昭和30年(1955年)高槻市に編入。高槻市三箇牧村大字柱本となり、同47年(1972年)より高槻市柱本となる。 文禄2年(1587年)関白 豊臣秀吉の命により、淀川の安全のために毛利、小早川、吉川の家臣が堤堰を築いた時、南北権度の標として松を植えさせたとあり、この松が船の運行に役立てられらたことより「船行の松(船幸の松)」となづけられたようで、大正期までは、 葉間家の東側の淀川べりにあり、古来名勝の一つともなっていたのである。 真宗の基盤として 平安期の社会では、当然、天台・真言の勢力が強く、寺院の多くもその流れを受けるものが、おそらくこの地にもあったことは否めないことである。 然し、時代の衰運により鎌倉期ともなると、親鸞の教義は、単に、関東のみではなく、社会的・経済的にも、その発展を目指して、この近畿や東海・北陸・中国に進出するようになった。 この近畿の拠点となったのは、茨木の「ミゾクイ」(溝杭)であったといわれる。親鸞の「門侶交名牒」の一つ「光菌院本」(集成第1巻)には「カマクラ了円ノ弟子、ツノクニハシラモト了西云々」とあって、仏光寺派荒木門徒がこの地にあったことがうかがえるのである。こうした浄土系の流れがあるこの地を天台真言系より転派した「空善」に、真言教義の発展を願って「蓮如」は、彼に居を構えさせたものと思われるのである。これが文明8年(1476年)2月、法光寺の創設となり、開基を「空善」とするところであろう。 台記―藤原頼長の日記。 山槐記―藤原忠親の日記。 太平記―著者不明、南北朝期の軍記物語(40巻)。 昭和30年以前の堤防 昭和30年以前の堤防は、上・中・下と三段に区切られていて、中段は、車道で江口橋〜唐崎間を数は少ないが「京阪バス」が運行しトラックや荷車が往来していたものである。 当時は、柱本も東が表通りで、「安心の渡し船」を利用して、対岸の「木屋(コヤ)」からバスで守口に出るか、香里園まで徒歩、旧京阪電車で「天満」にでるのが、暮らしの状態であった。 現在の「倉庫・火のみ櫓・道しるべの立て石等」は、すべて堤防の方にあったもので、「拡張工事」で現在地に移されたものである。 「船幸の松・又は船行の松」 現在は枯死し、淀川堤拡張工事による移動もあり、全く跡形もないが、「葉間家」の敷地にあった「船幸の松・又は船行の松」とも言われる松があった。これは、「太閤秀吉」が家臣の「毛利・小早川・吉川」に命じて、文禄2年(1593年)に淀川両岸の築堤を行い、運行する船客達の「里程」の目印として、植えさせて松と言われている。 柱本は、高槻市史にもみられる如く、「大化改新」後の土地と課税を目的に「班伝収授の法」により「口分田」と称して、庶民に耕地が提供されたが、この時に施行された「条里制」の形式が、遺されている地である。 条里制 古代の耕地区画と地番表示の方法のこと。 1町(60歩、約109m)間隔に縦横平行する水路・畦道で耕地を区画し、6町4方を1里とする。 奈良盆地では、横(東西)の行を条、縦(南北)の列を里と名付け、里の進行方向に1の坪から連続して36のつぼにいたる千鳥式と、1の坪の横に7の坪がくる平行式があり、何条何里何坪と表示している。 8世紀中頃に一般化し、「数詞+坪」の表示が定着したのは平安初期と云われている。 また1町4方の面積も1町といい、1町は10段からなるが、1段を短冊形に細長くする長地型地割(ながじがたじわり)と、長さを半分、幅をば倍の色紙形にする半折型地割(半折型じわり)とがある。 条里制は班伝収授に伴うものといわれるが、法的根拠はない。 いずれにしても、条里制がある所は、七世紀中ごろ・八世紀初期・十・十一世紀頃よりある土地と云える古いものであることは間違いないとされている。 |