月 日 | 平成22年10月21日(木) | 集合場所 | JR高槻駅南高槻市営バスA乗り場 柱本団地行きに乗車。 下車:柱本 |
順 路 | JR高槻駅南バス停 → 柱本バス停 → 柱本公民館 → 興楽寺 → 法光寺 → くらわんか船発祥地之碑 → 碧流寺 → 段倉 → コスモス畑 → 三島鴨神社 → 三個牧公民館 → バスで高槻駅へ |
天 候 | 薄曇り |
そ の 他 |
1)法光寺では、前住職 牧尾空群先生に、資料を準備して頂き、丁寧なお話しをして頂きました。 2)三島鴨神社では、宮司 松井位幾さんより説明を受けました。 本当に有り難う御座いました。 本報告書は、法光寺住職 牧尾空群先生の資料と三島鴨神社の資料を主にして纏めました。 |
記
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柱本地区は、「くわらんか船」の発祥の地として良く知られています。 江戸時代、淀川は経済の中心地・大坂と都(京都)を結び、さらに琵琶湖を経て東海や北陸地方とも通じる、物流の大動脈でした。 大坂・伏見間の旅客専用船・淀川三十石船をはじめ、淀船・伏見船・過書船などの貨物船が、人々の生活と経済活動を支えていたのです。 それら淀川を往来する船に、酒や食べ物を売る小舟(煮売茶船)を、「くらわんか舟」といいました。 この「くらわんか舟」の発祥地は、柱本で幕府から営業特権を与えられたといわれています。 現在、柱本浜の有ったあたりの淀川堤防には、発祥の地碑が建てられ、往時をしのぶことが出来ます。 興楽寺<こうらくじ> 当寺は、聖武天皇の御宇天平5年(733年)行基僧正が開基された畿内49寺院の一にして昔時は堂字壮厳を極め朝野の崇敬をあつめた。 霊験あらたかなご本尊十一面観世音菩薩は正に千古の秘佛である。 また境内仏堂の聖観音は御身高一尺五寸の霊像で類希なる力作と云う。 鎌倉時代の文永5年(1268年)近衛公は御本尊を深く尊信され国家安泰の祈願法会を盛大に営んでいる。 さらに、室町時代の永亭8年(1436年)足利将軍義教は執事の細川右京大夫に命じ田地を寄附して再興したが元亀元年(1570年)に至り高槻城主高山右近が異教を信じて一山堂宇を残らず破却し火を放ち焼失せしめた。 この時猛火の中より白鷺が一羽飛び去り河の洲に止った。人々は奇異の想いをなして行って見ればご本尊観世音菩薩であったと云う。 寛文8年(1668年)中興の権律師聖秀上人は村人と諮り一字を建立した。これが現本堂である。 元来浄土宗知恩院末寺に列し初代住職円誉寂性比兵師より現住光誉まで三百有余年を数える。 又山内には世界平和と世の母の苦を救う為に昭和29年ときの通産大臣高崎達之助氏が発願建立した悲母観音石佛を安置する。 境内には高槻市指定の楠が樹齢約250年です。 法光寺<ほうこうじ> 萬徳院中牧山法光寺の由来 浄土真宗開祖、親鸞聖人往昔、関東より上洛の砌、近江國志賀郡の大津の園城寺[三井寺]の俊円僧都の請いにより、寺内の萬徳院にて止宿され、これを縁として爾来、浄土真宗との間に深い関係が結ばれていたようである。 本願寺第八世、蓮如上人が寛正年間に大谷の地に「日花門」を建立されるに当たり、叡山との軋轢が生じ、その難を避けてご宗祖よりの縁ある大津園城寺に身をよせられたのである。 ときに萬徳院座主空善房が丹精をこめて蓮如上人をお世話申し上げて上人に帰依し、以後、常に上人のお供を申し上げられたとのことである。 文明七年(1475年)、上人が河内茨田郡出口「光善寺」にご巡教の際、柱本在の田中西右衛門某なる者が、この地に一宇の道場の建立を上人に懇願し、田地を寄進するにおよんで、文明八年(1476年)空善房は萬徳院の坊舎の一部をここに移し、道場を開かれたとされている。これが、当寺の創設であり、開基を空善房とする所以である。 文明十年正月(1478年)上人、山科に帰山に際して、師弟別離の証として植樹された梅を「一花八実の梅」として、当時は「八房寺」と呼称していたが、明応四年三月三日(1495年)に「法光寺」と改称されたのである。 元禄十年(1697年)火災により堂宇は焼失し、天明年間より僧俗が一体となっての再建の願いがかなって文化十三年八月七日(1816年)現在の本堂が完成したのである。 ★ 八房の梅 花山院右大臣家厚公が、「八房の梅」を「鴬の縫いけんおのが花笠に、またかげそえて八房の梅」と詠まれている。 現在は枯死して、その幹を加工して、本堂の外陣に展示されています。 ★ 見返りの松 昭和24年に「松くい虫」被害で枯死。約400年余の間境内地で「見返りの松」と呼ばれ、富田の「富寿栄の松」と共に知られていた松です。 ★ 大正十三年(1923年)「立教開宗七百記念」に際し、当時の本願寺の門主 大谷尊由師より由緒ある寺としての表彰を受けている。 大阪府法光寺開基 釋 空善 蓮如上人ニ帰シ歓喜愛楽他ニ殊ナリ、ソノ化導ヲ助ケルコト少カラス、ヨッテ今般立教開宗七百年記念慶讃法要修行ニ際シ之ヲ表彰ス 大正十二年四月十五日 釋 尊由 印 碧流寺<へきりゅうじ> 近江源氏、佐々木一族の河野氏の菩提寺として永暦年間(1647〜1661)に建立。浄土真宗・大谷派。 美しい構えの寺院。 三島鴨神社 (三島鴨神社の由緒略記より) ○創建 仁徳天皇は河内の茨田の堤をおつくりのになるときに、淀川鎮守の神として、百済よりここ摂津の「御島」に大山祇神を迎えになりました。 「御島」とは淀川の「三島江(みしまえ)」にある川中島のことでこのあたりは淀川でもっとも神妙幽玄な景観をもっていました。 ここは古代の「玉川湖沼」が淀川に流れ込む入江「玉江」(三島江の別称)にあって、島は淀川本流に、玉川水路が出された土砂が堆積したもので、玉川の土砂をもってできたゆえに「御島」とあがめられた。 ○当社は、もとは「御島(三島)の社」とあがめられ、淀川の鎮守であるとともに、王都難波を守護する神として、祈りつづけられてきた。 ○豊臣秀吉が淀川右岸堤防を築いたとき、それまで川中島にあった当社を三島江村の中にお遷ししました。 ○高槻藩主永井公は、淀川守護の任務を幕府からあたえられていたので、格別の尽力により社域を整え「三島鴨神社」と称することになった。 ○当社から御魂がうつされ、伊予(愛媛県三島)の大山祇神」、伊豆の「三島神社」がつくられ「日本三「三島」」として崇拝されるようになり、三社の根源社として、当社は格別にあがめられました。 ○後白河上皇に仕えた建春門院が、当社に祈願して、高倉天皇を懐妊し、安産した結果、上皇の命によって平重盛が京都上馬町に当社の御魂をお遷しして「三島神社」をつくりました。 |