長法寺は、天台宗延暦寺の末寺で、延喜10年(910)三井寺の開祖智証大師の弟子、千観上人が開基した。 千観上人が諸国を巡歴の途中、観世音菩薩が夢にあらわれ、「この地に留まってお寺を建てよ」とのお告げがあり、それに従ってお堂を建てたのが長法寺の起こりと伝えられています。 境内には、千観供養塔と伝えられる鎌倉時代の三重の石塔が現在も残り、国宝の「釈迦金棺出現図」もかつては当寺にありました。 京都洛西観音霊場第九番札所です。 |
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長法寺本堂 |
長法寺境内/三重の石塔 |
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走田神社 平安時代のはじめの頃の話。嵯峨天皇の命を受け、鎮護国家のための大寺院の建立地を捜し求めていた弘法大師の高弟・道雄僧都は、夢の中に現れた童子より長岡京の西山の地に適地があるとの啓示を受けます。夢に従ってこの地を訪れた道雄僧都の前に姿を現した童子は、「吾はこの山を守護する妙見菩薩なり。寺院建立の暁には千手観音を本尊に崇め、吾を走田神社に合祀せよ」というお告げを残した。 |
やがてこのお告げにしたがってこの地に築かれた大寺院が「海印寺」ですが、残念ながら応仁の乱で焼失した。 海印寺建立の前からこの地に鎮座していたといわれる走田神社は奥海印寺村と長法寺村の産土神として村人たちの崇敬を集めていました。海印寺が建立された際、走田神社は寂照院の鎮守社とされ、お告げの通り妙見菩薩が合祀されたそうです。その後、明治維新以降の神仏分離令にともなって妙見菩薩像は寂照院に遷され、「走田神社」と呼ばれるようになった。 |
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走田神社 |
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走田神社のお祭りで有名なのが、正月13日に行われる「弓講」です。 無病息災や五穀豊穣を祈念して行われる「弓講」では、羽織袴に身を包んだ2人の射手が、合わせて12本の矢を直径約1.3メートルの的に向かって射ます。12本の矢は睦月から師走までの月を表しているそうで、矢が的の中央の黒点に命中すれば、その月は豊作になるといわれています。 | ||
走田神社石段と妙見灯籠 |
走田神社拝殿と本殿 |