釈迦堂(方丈) 釈迦堂(方丈)は御影堂(極楽浄土)から多くの階段を下って行きました。階段の横には登りのエスカレーターが設置されていました。 ご本尊は、「頬焼の釈迦如来」。淀の水津村の漁師で、悪次郎とあだ名されたほど乱暴者が、托鉢の僧(実はこのお釈迦様)と出会って心を入れ替えるという物語に登場する仏様です。頬には悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷が見えます。 仏壇の中は暗いので、写真で傷を見せて頂きました。 |
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釈迦堂 |
釈迦堂前の信楽庭と勅使門/御火葬跡 |
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信楽庭(しんぎょうてい) 白州に大小18個の石を配した庭園は、阿弥陀さまの慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を表しているといわれております。 念仏を唱えながら生死の海を渡っていく姿を表現したものだそうです。 勅使門の左手の大きな三つの岩は、阿弥陀三尊の姿です。 18という石の数は、阿弥陀如来さまが私たちに約束して下さった48の願いのうちの18番目『念仏往生の願い』を象徴しています。 |
御影堂の右手前には石の柵に囲まれて大きな石棺があり、柵の前の碑には「圓光大師 御石棺」と刻まれています。 圓光大師とは法然の大師号で、法然が亡くなって約500年の後、東山天皇から贈られたものです。 石棺は、どっしりとした形で、 やや丸みをおびた重い石蓋で覆われています。 御火葬跡は、法然上人御火葬跡で火葬されたのはここ光明寺で、遺骨の半分が裏山(御本廟)に安置され残りは弟子達に分与されたそうである。 |
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信楽庭の説明風景 |
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勅使門は天皇家の勅使をお迎えするために作られた門です。 大正7年4月に当時の皇太子殿下(昭和天皇)が光明寺に行啓なされています。 | ||
信楽庭 |
勅使門 |