わがまち紹介
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平成22年5月 わがまち紹介
豊かな自然美を味わえる" まち ":長岡京市
【 その3/5:光明寺2/3 】

光明寺の起こり
 法然は15歳の時(異説には13歳)に比叡山の皇円について得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗ります。
 法然が24歳のときに叡山を降りられたとき、粟生野の里で当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。その時、茂右衛門夫婦は、法然の強い仏法への気持ちと、民衆を救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いします。
 建永9年(1198年)、「平家物語」で有名な武将熊谷直実が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪しました。蓮生房と称し、法然が43歳の時に初めて念仏の教えを説いたとされる西山粟生に庵を結びました。その時、法然を開山第1世として『念仏三昧院』を建立したのが光明寺の起こりです。なお茂右衛門の屋敷跡とされる立て札が、光明寺内にあります。

 御影堂(みえどう)は光明寺の伽藍の中心となる建物です。正面の階段を上がり、左手から中に入りますと正面にご本尊があります。
堂内は薄暗いが、お坊さんが灯篭・燭台・輪灯に火を灯して下さり一遍に明るくなりました。
御影堂・阿弥陀堂・釈迦堂と順に回り丁寧にわかりやすく説明をして頂きました。
ご本尊の周辺を宮殿(くうでん)といいます。宮殿は黄金の蓮や天蓋を始めとする様々なもので美しく飾られています。御影堂の内陣や仏壇が極楽の荘厳の様子を現すとのことです。

御影堂前での説明風景

回廊にて

光明寺の中心的な建物が御影堂で、通常の寺院様式では本堂と呼ばれる建物に相当します。
宝歴3年(1753年)に再建された。 御影堂には、法然上人が自らお作りになられた「張子の御影」がお祠りしてあります。
法然上人が75才の時、「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流刑にされた。その時大事にしていた、お母様からのお手紙を水にひたし、自らお作りになったといわれる「張子の御影」です。

御影堂にわたる回廊です。
ここから見る風景も格別です。周囲を緑に囲まれ、日常を忘れるひとときです。
納骨堂の前で立ち止まり、階段の数の謂われ等について説明を受けました。
阿弥陀堂は、寛政11年(1799年)に再建された総欅造りのお堂です。
ご本尊は、熊谷蓮生法師が琵琶湖湖畔堅田の浮御堂から背負って帰って来たという、背丈6尺7寸の阿弥陀如来像です。

納骨堂前/納骨堂への階段

御本廟
法然上人は80歳で亡くなられ 遺骨は東山・吉水(大谷)に埋葬されました。しかし比叡山の僧は、上人の墓を暴き、遺骨を鴨川へ流そうと企てました。それを知った上人の弟子たちは密かに石棺を持ち出し、 嵯峨・二尊院、そして太秦・西光寺と移しました。ある夜、上人の石棺から数条の光明が放たれ、南西の粟生野の地を照らすという不思議なことが起こり、上人ゆかりの粟生野・広谷の里(「念仏三昧院」)で荼毘(火葬)に付して裏山に遺骨を(現・御本廟)埋葬しました。

御本廟の前/御本廟への石段

釈迦堂への回廊


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