西国街道(山崎道) 西国街道は、通称で近世の公称は山崎通。宿駅制度の整備に伴い、六宿駅(山崎・ 芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮)が設けられていた。 東寺から西下し桂川を渡り、久世・向日町・神足・下植野・円明寺などの村々を通る街道を含んでいた。そのため近世の西国街道は参勤交代の大名の公道であったばかりでなく、庶民の交通要路でもあった。 ということは、古代においては西国諸国からの租庸調などの納税もこの道を通って京へ送られたのだろう。 室町時代には、大山崎八幡宮の油座は西日本の油(明かりとして利用)の専売権を持ち大いに発展した。 その菜種油の輸送には淀川に接し、街道沿いにあるという地の利も生かされたことだろう。 近世江戸期には島津や毛利ら西国大名がの参勤交代の近道として実際に通っていたのである。 関大明神社(せきだいみょうじんしゃ) 当地が古代摂津の国と山背国(後の山城国)の関所である山崎の関の跡といわれ、関守神または辻神を祭ったのが起こりではないかと思われる。 祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)、または大智明神(だいちみょうじん)です。 西国街道・山崎宿の案内は、「ふるさと島本案内ボランティアの会」の浜田さんにして頂きました。 浜田さんは、島本町山崎の方で、地元の方でも知らない歴史遺跡をご存知の様でした。 |
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この関所は当時、交通の要であり、時には朝廷が兵を派遣し守らせるほど重要なところだった。しかし平安時代のはじめころには関は廃止されていたらしく、その跡地には関戸院という施設が置かれ、藤原道長や平家一門など貴族や官人の宿泊に利用されていたようです。 現在の本殿は室町時代中ごろに建てられたと思われ、大阪府の重要文化財に指定されています。 |
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関大明神社/本殿 |
関大明神社・山崎宗鑑説明板 |
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山崎 宗鑑(やまざき そうかん) 山崎 宗鑑は、戦国時代の連歌師・俳諧作者です。 洛西山崎に住したことから山崎宗鑑と通称される。俳諧撰集『誹諧連歌抄』(江戸初期版本では『犬筑波集』)の編者として伝えられた。風狂・飄逸の人としても伝説化されている。 現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。 芭蕉も当地で句を残した。 「ありがたき すがたおがむ 杜若(かきつばた)」 |
↓ 全国油脂販売店標識 油脂販売業者のマーク 実はこれは「全国油脂販売業者共通の店頭標識」なのです。 遷座1100年(1957年)記念大祭施行に当り、全国油脂販売業者共通の店頭標識を制定することとなり、全国から募集し、具体美術協会会員、島本昭三氏の作品が選ばれ採用されました。 |
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国界碑/西国街道史跡案内 |
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→ 油祖像 これは油神人のごく初期の像で、翁が革袋に荏胡麻(えごま)油を入れて、灯油として八幡神に献納している姿をかたどったものだそうです。 室町時代を中心として西日本全国に独占的商圏を広め、大いに繁栄した油商人の集団の本所としてのこのお宮さんが、「本邦製油発祥の地」として、また「油の神さん」として親しまれてきた象徴です。 | ||
離宮八幡宮/ |
油脂販売店標識/油祖の像 |
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離宮八幡宮(油祖) 離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたる神社。 八幡大神を祭神とする。大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都の近くに移座し国家を鎮護せん」と神託をし、嵯峨天皇の離宮跡であるこの地にきた時、霊光を見て、掘ってみると岩間から湧き水が出たという。 860年(貞観二年)に僧行教が宇佐八幡神を嵯峨天皇の離宮の一郭に勧請したことにより、離宮八幡宮が誕生しました。 平安時代の貞観年間、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)油の製油を始めました。 当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。 また、油座として離宮八幡宮は油の専売特許を持ち栄えてゆきます。 諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。 平安、鎌倉、室町時代の我が国経済界で貢献し、一時は「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めた離宮八幡宮でした。 織田信長の楽市楽座の政策で打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになるとこれに市場を奪われ徐々に衰退してゆきました。 その昔油座の司として油商人に特許を与えたことから、現在でも油脂業者との関係が深い神社です。 離宮八幡宮の案内は、「ふるさと島本案内ボランティアの会」の杉中さんにして頂きました。 本当に有り難う御座いました。 |