わがまち紹介
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平成21年4月 わがまち紹介
" 高槻の歴史を今に伝える地域:安満地区 "
【 その3/5: 磐手杜神社の伝統行事について 】

桧尾川の地図 宮司 藤林藤文様より説明を受けた抜粋です。(順不同の点もありますがご容赦下さい。)

 大阪府知事から許可をうけている神社は、府下で63社前後、高槻市で春日神社と称するのは7〜8社である。高槻市で神主がいて社務所のあるところは6社と少ない。殆どが兼務所である。
磐手杜神社の兼務神社は、成合の春日神社、塚原の八幡宮、津之江の筑紫津神社、アジャリの森稲荷神社、芝生の八幡神社、山手の春日神社(この春日神社は明治44年の太政大臣布告令により、一村一神社となり、これまで独自の春日神社であったのが、磐手杜神社に合併となった。しかし、その半年後やはり独自で社務を続けたいと府に交渉したが、認められなかった。
このため、形式上は磐手杜神社の境内外の末社となっている。
祭は5月1日から15日迄あったが、本祭りは5月5日で、当日は子供御輿、布団太鼓がで、大変賑やかである。
 かつては、安満宮山古墳あたりは、磐手杜神社の境内地であった。古代、安満庄は門戸(今の八丁綴の交差点附近)、即ち安満小字門戸が小字の1番で、そこを基点に北東へかけて小字が46あり、最後の小字が宮山古墳のある辰垣であった。
 この安満庄の中には、別所、古曽部、磐手、山手、安満、成合等々が含まれている。安満という名の謂は、一説によると安心して満足して暮らせるところという意味も込められているといわれている。
磐手と言われるのは、この一体が岩が多く、山手には採石場があるのはその為です。
 当神社の社紋は「昇り藤」、これは藤原鎌足の家紋と同じで、奈良の春日神社とは関係ない。昇り藤は当磐手杜神社と東大阪の唐国神社だけである。
磐手杜神社の大祭、通称「馬祭」が毎年5月5日の子供の日に行われる。
この祭りは八百年前の平安時代末期から始まっている。
安満には、北、中、下のお旅所があり、そこでは神輿に祀られた神様の御霊のお休みどころとする。
神輿を先尊している馬は3頭で、夫々の馬に少年が乗るか、元服する15才のものが昔は乗ることになっていた。今は少子化で年令に制約はない。
一の馬に乗るノリコ(昔からの呼名)は、神社神主の家、神社を補佐する禰宜の家から出す。
ただ、この両家に子供が親戚を含めいないときは、借子といって他か ら借りてくるが、安満にゆかりのある者が条件で、誰を選ぶかは磐手杜神社の宮司の裁量にある。
祭りの役としては、家つきと肉つきの二つの権利がある。
ここでいう'権利,とは役につくとは村人にとって名誉であり、その権利を得るということである。
家つきとは、家についた権利で、当主が亡くなっても、その子、兄弟、従兄弟、等血縁のある男子に継がれていく。
この場合その者が安満に居住していることは関係ない。
肉つきとは、その人についた権利であり、亡くなると権利を失う。
現在、上述の如く、一の馬にノリコとして乗れるのは、藤林家筋だけである。藤林家か神宮を兼ね、一の馬に乗る。
二の馬、三の馬は一の馬に付随して出来た馬である。
通称、馬座といい、昔は30軒あったが今は15、6軒になっている。
馬座の中には、役座、中入座、後入座の3グループがあり、役座が二の馬、中入座、後入座が三の馬に乗る。
ここで、ノリコは、色々な制約、守るべきことがある(伝統の約束ごととして理解すべきで、差別とはとらえていくものではない)。
一の馬のノリコは5月1日から5月5日の例祭までは精進料理とし、肉魚は食べられない。
昔は例祭が5月15日であったので、5月1日から15日迄精進料理、女人禁制で、小学校へ行ってもゴザ1枚をもって行き、一番後で女子と折触しないようにし、担任の先生もそれが出来るよう配慮した。
但し、これは戦前迄で戦後はこのようなことは差別の最たるものとして、辞めている。
また、一の馬に乗るノリコは神宮の処でその間居住することになっていた。
現在はこの同住はやっていない。
二の馬、三の馬のノリコは、5月3日〜5日迄が精進料理であるが、昔は5月3日から15日迄であった。
また、女人禁制は、一の馬と同様戦前迄その間守ることになっていた。
勿論、これも戦後は廃止されている。
(昔は女人禁制では女性の手にもふれてはならないとされていた。
) 馬座の中には、役座、中入座、後入座の3つのグループがある。
役座が二の馬、中入座、後入座が三の馬に乗る。
以下、馬祭の祭事は神事の式次第にそって進められていく。
「馬祭」そのものは、「オダンツキ」という神をお迎えするお仮屋を設けるところからはじまり、宵宮、枕太鼓の巡業で村中をお祭り気分に盛り上げたところで、本宮、渡御行列を迎えるのである。
一ノ馬、二ノ馬、三ノ馬、そして、神輿などが練り歩く渡御行列は、神馬の位に付く一ノ馬の「アシアゲの儀」で幕が開き、渡御行列の指揮権を授ける「扇渡しの儀」を経て各御旅所へと練り歩き、市場の辻での「シバリオの儀」を以って神輿が神社へと還る。
そして、一の馬の「ノリコ」が御神体を神社に納めて大祭を終えた後、「オダン」を解体撤去し、祀っていた御幣をその当屋の屋根に上げたところで、めでたくお開きとなる。
御神輿は、平成9年に改修したがいつ創られたか記録が残っていないが、明治15年に今の御神輿を購入した記録はある。その御輿の板囲いには天明(1785年)と明記されている。 その他、神社とお寺の造りの違いや多くのお話をして頂きました。
今年(2009年)9月22日には、合社100年祭を予定されていて、磐手杜神社の社史を展示の準備をしておられます。
藤林藤文宮司さんは、昭和2年生まれ(81才)とお聞きし、この精力的な活動に敬服します。

下の案内書は、いつもは有りませんと言われ参加者全員に準備して下さいました。
磐手杜神社の案内書
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