わがまち紹介
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平成21年4月 わがまち紹介
" 高槻の歴史を今に伝える地域:安満地区 "
【 その2/5: 桧尾川 】

桧尾川の地図  高槻市域を流れる河川としては、芥川に次ぐ流路延長12.2kmと流床標高120m付近までは平均勾配1/10という急流をなし、V字谷を刻んでいます。
 成合谷の南端で、安満山と紅茸山との間の狭隘部と南北方向に切って淀川底部に顔をだした桧尾川は、そこで急に流路を南東に変え、安満山の南麓に沿って山手町と萩之庄との境界まで山麓線に沿って曲流したのち、ふたたび流路を南に転じて前島町の南方で淀川に合流している。
 この安満山南麓沿いに曲流する桧尾川の現流路はほぼ等高線に平行しており、本来等高線を切って流れる性質を有する河川の流路としてはきわめて不自然な様相を呈している。
 桧尾川の谷口を頂点として京大農場付近までが同心円上の等高線の存在であり、これはこの地区が往時の桧尾川によって形成された扇状地で有ることを示している。
すなわち現在の流路に固定される以前の桧尾川は谷口を出たあと南方へむかって乱流し、そこに土砂を推積して小さな扇状地を発達させたのであり、このことは京大農場を中心とする安満遺跡の数次にわたる発掘調査によって、桧尾川の旧流路またはその分流と推定される水路跡が確認されたことによっても裏付けられる。
 それでは、この部分の桧尾川の水路が現在のように固定されたのはいつ頃で、どのような事情によるものか、明確な解答を与えてくれる証拠は残されていない。
天長9(832)年には摂津国島上郡の荒野并野地223町が安満の勅旨田として寄せられ、その後此の地区は少なくとも室町前期までは春日社領安満庄として存続していた。
そして15世紀前期には成合村春日大明神の神事に参加し、安満村市場が成立するまでになっていったのである。
 この間に、安満庄の一部をなす桧尾川扇状地でも開発が進められ、その耕地を桧尾川の洪水から守るために桧尾川の水路を現在のように人工的に固定するとともに、扇状地上の耕地に対する潅漑用水を確保するために白隣池、安満池などの溜池が築造された。

桧尾川の地図


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