わがまち紹介
目次へ|戻る(その2/5)次へ(その4/5)

平成20年11月 わがまち紹介

" "天下分け目の天王山:大山崎 "
【 その3/5: 山崎合戦跡 】

陶板画
 天王山のハイキング・コ−ス5ヵ所に6枚設置しています。
次回には、 山崎山荘の入り口から順に読みながら登りたいものです。
このコースは「秀吉の道」と名付けられ、天王山合戦をはじめ秀吉の天下取りの様子を6枚の陶板画で説明しています。
監修堺屋太一氏、 絵岩井弘画伯、
陶板画製作は大塚オーミ陶業(株)です。

天王山へ登る

大鳥居

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月に本能寺の変で織田信長を討った明智光秀に対して、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉が、6月13日(西暦7月2日)京都へ向かう途中の摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)で、明智軍と激突した戦いである。
山崎合戦、天王山の戦いとも呼ばれる。

← 山崎合戦記念碑
天正10年(1582)、本能寺で織田信長を討った明智光秀と、中国遠征から急遽とってかえした羽柴秀吉は山崎で対峙。戦いの焦点は、どちらが天王山を制圧するかにあったため、いまも勝敗の別れ目を“天王山”という。
山崎合戦記念碑は、天王山の中腹にあり、京都・大阪平野を一望できる景勝地にあります。
京都側には展望出来るステージも出来ていました。

山崎合戦跡地

十七烈士が眠る
 山頂にほど近く、うっそうと茂る木々に囲まれた場所に、十七烈士の墓はあります。
1864年、禁門の変を起こした首謀者の一人真木和泉守は幕府軍に敗れ、最後は天王山で、同士16名とともに自害しました。
政変は失敗したものの彼らの志は生き続け、この4年後、新政府が誕生することとなりました。
  この禁門の変では、社寺や民家など70以上の建物が焼失するなど、大山崎も大きな被害を受けました。

山頂へ/山崎合戦の説明板

十七烈士の墓(維新の史跡)

このページの先頭へ戻る