わがまち紹介
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平成20年10月 わがまち紹介

"歴史を回顧するまち:梶原・上牧"
【 その3/4: 一乗寺 】

梶原のほぼ中央にひときわ大きいお寺、「昌林山 一乗寺」があります。
住職がお寺の歴史等のお話と境内の案内もして下さいました。
元は、千観の創建である真言宗「金仙寺」という寺院がありました。それがいつの頃 からか荒廃して毘沙門天二体だけを残す無住寺となっていました。
応永34年(1427年)梶原の住人、宇野孫左衛門と西村彦兵衛の二人、 が京都の一条戻り橋たもとで辻説法をされているのを聞いて、たいそう感激し、 その日親上人を請じて今の昌林山 一乗寺が創建されたと伝えられています。同上人は、 三代将軍・足利義満(1368年〜1394年)の33回忌に、将軍・足利義教に日蓮宗への改宗を迫った『立正治国論』を書いた。
将軍様も百姓、町人も同じ人間と説教した事により幕府の弾圧を受け、牢屋に投獄され、真っ赤に焼けた鍋を頭に冠せられる拷問を受けましたが、苦難にも耐えて説法をやめなかったことから「鍋かむり上人」と呼ばれて、人々の尊敬を集めた。

一乗寺は、慶長年間伽藍を焼失したが、その後、慶安3年(1650年)養珠院の寄進により、本堂・庫裏・開山堂などが再興され、その後も、歴代紀州徳川家の保護を受けたと伝えられている。
平成10年に、一乗寺金山整備 新本堂建立事業として、本殿、山門、開山堂等が再建され、非常に美しい大きなお寺です。

一乗寺参道/説明板

一乗寺山門/本殿

日親上人とは、下総国に生まれ、妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。1427年に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止される。禁に背いたために投獄され、拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」、「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。

その拷問の様子を描いた『日親上人法難絵図』(狩野探幽)が伝わっており、一乗寺の宝となっている。
また、開山堂の前には昭和50年代に建てられた日親上人の銅像がある。
開山堂の横に、弁慶が馬をつないだという伝説があるクスノキの大木、高さ33m樹齢約800年があり、立て看板も小さく見える。
開山堂の屋根には、この楠の葉っぱが落ち掃除が大変だったそうです。住職の決断で屋根を最新の技術と屋根材を使用して改修されたとのことです。

住職のお話/聞き入る会員

→ 本殿の東側に大きな岩を神体にした神殿が有ります。
昔はこのお寺の近くまで淀川がきていたのでしょう。その当時この岩を神として祭っていたようです。その後神仏を同じ場所に祭る事になり今に来ているようです。
一乗寺・畑山神社の古木を見ても歴史ある地区で有ることを物語っています。特に一乗寺の楠は高槻市の中でひときわ高(約33m)くて元気な古木ではないでしょうか。

境内内部の説明

岩堂/楠の大古木

梶原は、古くは「カジオリ」と呼ばれていました。淀川で大風のために梶(舵と同意語)が折れ、帆も失ってしまい、それでこの地域を「帆無梶折邑(ホナシカジオリムラ)」と呼ぶようになったという伝聞があります。
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