歴史文化資料館の中央には、島本町のジオラマが置かれ史跡・遺跡の場所等の位置が確認出来るようになっています。 まちの中心に西国街道が通り、また三川合流の地点として、古来水陸交通の要衝として栄えて来たことを強く印象付けられた。 島本町の植物については興味を持つた。大沢のスギ、若山神社のツブラジイ林、尺代のヤマモモなどの写真はビデオ等で大きく展示して欲しいと思う。 |
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島本町のジオラマを囲む/遺跡の場所は |
昭和の生活/懐かしい農耕具 |
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宝城庵 臨済宗大徳寺派。天台宗応塔寺寮舎でしたが、天文年間(1532〜1555)に失火にかかり焼失したといいます。元亀二年(1571)僧明岩が現地に庵室を作り宝城庵と呼びこの時より禅宗に改められましたその後寛永年間(1624〜1643)に僧栄室が再興し現在にいたっています。当庵薬師堂の本尊薬師如来立像は淀川に架けられていた山崎橋の柱で作られたと伝えられもとは、八幡神社の地にあった薬師堂に安置されていましたが、明治の神仏分離令により当庵に移された。 |
小侍従(こじじゅう)は、平安末期〜鎌倉初期の女姓で、「千載集」「新古今和歌集」等の勅撰集に54首も入首した一流の歌人です。 石清水八幡宮25代別当大僧都光清(こうせい)の娘で、母は名高い歌詠み花園左大臣家の女房小大進(こだいしん)。 また当時有名な貴族や歌人藤原実定・俊成・平忠盛・西行ら多くの歌人などと交際し、贈答歌を交わした。 彼女は才気溢れる恋の贈答歌を得意とした歌人で、 「待つ宵の…」の歌は評判となり、「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。 |
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宝城庵山門/本殿 |
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待宵という異名は
「恋人の来るのを待つ夕べと帰って行く朝では何れが哀れはまさる」
と大宮(多子)からお尋ねを受け【待つ宵の ふけ行く鐘の こえきけば あかね別れの 鳥はものかは】と答えたので大宮は彼女を「待宵」と呼ぶようになったそうです。 この顕彰碑を建てたのは、1649年から13代目の高槻城城主になった永井直清、碑文は林羅山だそうです。 大正期までは五輪の塔だったそうです。 | ||
待宵小侍従顕彰碑/五輪の塔の頭 |
緑に包まれた待宵小侍従顕彰碑 |
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