わがまち紹介
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平成20年5月 わがまち紹介
"歴史の宝庫・交通の要所のまち:島本町"
【 その1/3: 概 要 】

月    日 平成20年5月15日(木)
集 合 場 所 JR島本駅出口
天    候 晴 れ
順   路  JR島本駅 → 島本町立歴史文化資料館 → 桜井駅跡 → 宝城庵 → 待宵小侍従墓・顕彰碑 → JR島本駅
そ の 他 島本町立歴史文化資料館では、教育委員会 生涯学習課 吉村さんに丁寧に説明していただきました。
本当に有難う御座いました。
島本町、高槻市、茨木市、から成る「北摂」は歴史の宝庫です。
島本町は、木津川・宇治川・桂川が合流する淀川右岸に位置し、東は淀川を隔て、枚方市、京都府八幡市と相対し、南および西は高槻市、北は京都市および京都府長岡京市、大山崎町に隣接しています。
狭い平坦地には、国道171 号、東海道新幹線、阪急京都線、JR東海道本線、名神高速道路の主要幹線が通っています。
島本町は、平成18年 4月 わがまち紹介”流水と歴史のまち 島本町”
桜井駅跡・宝幢寺・島本町ふれあいセンター若山神社・尺代・水無瀬神社
でも紹介しています。
関連ページ ”流水と歴史のまち 島本町”
JR島本駅
JR島本駅は、平成20年3月15日(土曜日)に開業しました。
島本町内では、旧日本国有鉄道時代から新駅設置に向けた動きがあったが、財政上の問題などから見送られてきた。
2007年9月19日、新駅の名称を島本駅に決定し2008年3月15日のダイヤ改正にあわせ開業とJR西日本から発表された。地元の要望を受け、入線メロディ(原曲として小林亜星作詞・作曲の「人間みな兄弟〜夜がくる」)が導入されることになった。
未だに入線時の電子ベル使用が主流であるJR京都線区間内の中間駅では、初めての入線メロディ導入となる。

島本町立歴史文化資料館
「旧府立青年の家」の横にあった「麗天館(れいてんかん)」が平成20年4月12日に「島本町立歴史文化資料館」として開館した。
麗天館は、昭和16年(1941)に建てられた。当時、大阪財界の重鎮であった一瀬粂吉氏(各地に学校図書館・楠公銅像を寄付)が当地を訪れた際に、楠公父子の忠孝に感激し、有志と共同で史跡桜井駅跡の拡張整備事業に尽力し記念館を建設、島本町がその管理にあたってきた。

桜井駅跡
「駅(駅家)」とは、大化の改新以降、幹線道路に30里(約16キロメートル)ごとに設けられた施設で、馬など旅に必要なものを備えていました。この桜井の地にも「駅」があったといわれますが、実態はよくわかっていません。
 延元元年(1336年)、足利尊氏の大軍を迎え撃つため、京都を出発して兵庫に向かった楠木正成が、途中、桜井の宿(駅)で子の正行に遺訓を残して河内に帰らせたと、『太平記』に記されています。この伝承は「桜井の別れ」として後世の人びとに広く知られ、絵・詩・歌などの題材として取り上げられました。
 桜井駅跡は、明治から昭和10年代にかけて逐次整備され、石碑の建設や敷地拡張などが行われました。大正10年3月には国史跡に指定されています。敷地内には楠公父子の石像や多くの石碑が建ち、クスノキの木が生い茂っています。

宝城庵
補陀山宝城庵は臨済宗大徳寺の末寺でご本尊は観世音菩薩、創建年代は不詳といいます。薬師堂内の本尊薬師如来は夢のお告げで、淀川河中に沈んでいた山崎橋の柱でつくり、長治二年(1105)にお祀りしたと伝えられます。事前に申し込めば拝観できます。


待宵小侍従墓・顕彰碑
待宵小侍従は石清水八幡宮別当光清を父に持ち、一族に宮廷歌人の多い環境に育った彼女は生来の才気も手伝って、歌人としても注目を浴びます。平安時代も終わりごろ、 太政大臣藤原伊通の子伊実(これざね)に嫁いだが、三十九歳のころ夫と死別、二条天皇、皇后藤原多子や高倉天皇に仕え、華やかな宮廷歌壇で活躍、多情な恋愛遍歴を重ねました。
恋人が来るのを待つ「待つ宵」と「後朝(きぬぎぬ)の別れ」とどちらが趣が深いかと問われ、
待つ宵no にふけ行く 鐘のこえきけば あかぬ別れの 鳥はものかは
と、恋人を待ちわびる胸の苦しさを詠んだものとされる彼女の名歌は、新古今集や平家物語にあります。
六十近くで出家、男山の中谷に庵を結んだとか、桜井の里で余生を送ったとか言われています。待宵小侍従の墓と伝えられる五輪塔と慶安三年(1650)高槻城主  永井直清によって建立された碑のある場所は「苔山」とか「待宵の丘」と呼ばれていました。
宝積寺にある室町時代鋳造の鐘は 前述の歌に因み「待宵の鐘」と呼ばれています。
昔は名神高速道路の真ん中辺りにあって、大きな松に覆われていたそうですが、その拡幅により、現在地に移されました。
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