わがまち紹介
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平成20年3月 わがまち紹介
“ 淀川から三島の表玄関:津之江 "
【 その5/5:稲荷神社・津之江南遺跡・清水池 】

稲荷神社の中に説明用立て札があり、それによると、
津之江の鎮守―アジャリの森―
 ここ稲荷神社の一帯には津之江南遺跡がひろがっています。津之江小学校付近の 発掘調査では約2万年前の後期旧石器時代のキャンプ跡をはじめ、弥生時代から鎌倉時代にわたる集落や墓地が確認され、この地域の長い歴史を物語っています。
今から1200年前に書かれた歴史書「日本書記」には、安閑天皇元年(534年)のこととして、当時三島を治めていた三嶋県主(あがたぬし)飯粒(いいば)が天皇に良田四十町を献上、その田を耕すために大河内値味張(おおこうちのあたいあじはり)という河内の豪族が春・秋それぞれ五百人の農民を遣わすことになったと記されています。
稲荷神社一帯が「アジャリの森」と呼ばれ、津之江西方に「五百住(よすみ)」という地名がのこるのは、おそらくこの伝承によるのでしょう。また津之江にはもうひとつ筑紫津(つくしつ)神社があります。平安時代の歌謡「催馬楽(さいばら)」の「難波(なにわ)の海」に「難波(なわ)の海 難波(なわ)の海 漕ぎもて上がる 小舟大船 筑紫津までに 今少し上れ 山崎までに」とある筑紫津との関連が注目されます。
こうした津之江にまつわる伝承は、津之江―河の港―という地名が示すようにこの地域が淀川水運に深くかかわり、三島の中心地である北方の嶋上郡衙跡(しまがみぐんがあと)と盛衰をともにしたことを示しています。この小さな鎮守の森には、古い記憶が秘められているのです。
平成十四年三月  高槻市    

稲荷神社・アジャリの森
津之江の鎮守で倉稲魂(うがのみたま)神を祭神としている。
神社の拝殿の後に、「熊吉」、「龍王」などの名前の石碑が多数あります。
ここ稲荷神社の一帯には津之江南遺跡がひろがっています。小学校付近の発掘調査では約2万年前の後期旧石器時代のキャンプ跡をはじめ、弥生時代から鎌倉時代にわたる集落や墓地が確認され、この地域の長い歴史を物語っています。

稲荷神社鳥居/稲荷神社境内の参道

津之江の鎭守/アジャリの森説明板

津之江南遺跡
これまでに旧石器時代をはじめ、弥生時代から鎌倉時代にかけての住居や墓が数多く調査され、長期にわたる集落遺跡であったことが明らかになった。
2万年前には、この付近の広野は食料を求めて移動する旧石器時代の人達の良い猟場となっていた。発掘されたキャンプ跡からは狩りや獲物の解体に使った石器や、調理に使った河原石などが見つかっている。

弥生時代の墓からは、市内最古の弥生土器のひとつが出土した。弥生人たちがいち早くこの地にムラを営み、芥川に沿った湿地で米を作りはじめたことがわかる。
このように津之江南遺跡で発見された旧石器時代のキャンプ跡や、弥生時代の竪穴住居・墓などは、三島地方を考えるうえで重要な資料となっている。

津之江南遺跡/説明板

ため池の歴史は古く弥生時代に、稲作の始まりとともに、造られていた。 ため池は、灌漑用の貯水施設ですが、都市近郊の地域においては、都市化の進展に伴う農業の衰退などにより、農業用利水としての役割が低下した。 現在、農業用の施設だけでなく、まちにうるおいとやすらぎを与えるため、地域の人々が力を合わせ水辺の環境づくりをしようとする「オアシス構想」により整備が進められれています。

清水池/ゲート操作盤棟

清水池/排水ポンプ・配管

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