長岡京は、1900回以上の発掘調査によって、東西4.3Km、南北5.3Kmという広大な都であったことがわかった。 宮域は、皇居と官庁街、左・右京は離宮、邸宅、寺院、市が置かれ、碁盤目状に道路が造られていた。 道路は、朱雀大路(幅54m)、二条大路(幅40m)、一条大路(24m)、一般路(9m)で道路の両側には排水路もあり、条坊制と呼ばれる計画的な造営がなされていた。 大極殿院は丘の一番高い場所にあり、朝堂院・南大門は一段低い位置に有る。 |
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長岡京は、昭和29年から始まった発掘調査(現在も継続中)により、平安京とほぼ同じ規模を持った都である事が確認された。 条坊制によってきちんと区画割されており、範囲は現在の向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部にまで及んでいる。 その中心部分にあたる大極殿跡を中心に、向日市文化資料館アニメーターの市川さんの案内と説明して頂きました。 |
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長岡京宮を大極殿からみる |
長岡京宮大極殿跡 |
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向日市鶏冠井町には「大極殿(だいごくでん)」という地名があります。大極殿は1200年以上も前の建物で、その名称が今も地名として残っています。大極殿は、天皇が政治を司った場所で、都の中で最も重要な場所です。 大極殿跡は現在は公園となり市民の憩いの場として親しまれています。 昭和39年(1964)に国の史跡に指定されています。 |
大極殿の前に七本の宝憧(ほうどう)が立てた。 古代中国伝来の儀式用で、長さ9mの大柱の上に4神の旗と鳥・日・月の飾り物が華やかに揺れていた。 2本は公園内にあり、2本は民家の家の下にあり、3本は柱の跡が見えるように保存されています。 宝憧は天皇の権威を象徴し、即位式と元日のみ建てられる特別な装飾具です。 | |
長岡京大極殿前庭の宝憧 |
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長岡宮翔鸞楼(しょうらんろう)の発見 平成17年の調査で、政務・儀式の場である朝堂院の前面に楼閣が有ることが判明した。 桓武天皇は新天地長岡京で自らの皇統の正統性と権威を高めるため、唐長安城にあった闕を模倣し、朝堂院の前面に楼閣を建設したのでしょう。この建築様式は唐の制度や文化を積極的に取り入れた桓武朝を最も端的に示す遺構と評価できます。 |
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長岡宮跡碑(鶏冠井(かいで)町) |
長岡宮朝堂院/翔鸞楼跡を見る |