わがまち紹介
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平成20年2月 わがまち紹介
“ 1200年前の都と西国街道の文化にふれる:向日市 "
【 その4/5:向日神社・元稲荷古墳 】

向日神社には西国街道に面して大きな鳥居が有り、広い一直線の参道に入る。
参道の両側は大きな桜の木で覆われ爽快である。
向日神社は延喜式神名帳に記載された式内社であり神名式においては 山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)と称され、後に火雷神社(ほの いかづちじんじゃ)を併祭して今日に至っています。
 この両社は同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は 下ノ社と呼ばれていました。

向日神社鳥居/参道

舞楽殿/拝殿

向日神社は、「明神(みょうじん)さん」の名で親しまれています。
向日神社の創立は、大歳神(おおとしのかみ)(※1)の御子、御歳神(みとしのかみ)がこの峰に登られた時これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まります。
本殿は室町時代の「三間社流造」(※2)という建築様式で国の重要文化財に指定されています。

→ 北山遺跡(※4)説明板

今回、中塚さんの配慮で中島技師より元稲荷古墳(※3)の現地説明をして頂けることになりました。古墳は、前方後方墳で古墳時代前期(3世紀後半)に築造された。
昭和35年(1960)に第1次調査が行われて、平成19年度の調査は、第4次で前方部と後方部をつなぐ東側くびれ部分から、葺(ふ)き石と礫敷(れきじき)を発見された。
東側くびれ部からは壷形埴輪が出土したとのこと。

北山遺跡/元稲荷古墳頂上歩く

今回、葺き石と礫敷の境目にある基底石がなく、礫敷の層が数十センチと厚いことから、「礫敷が基底石の役割を担っている可能性があり珍しい」とのこと。
見せて頂いた「葺き石」は握り拳程度の石が殆ど調査も大変でしょう。

 長岡京の西大宮通りにあたる南山からは遠方の男山や天王山が展望出来た。

元稲荷古墳発掘現場

南山から長岡京宮を展望する

※1歳神:「歳」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。
※2三間社流造:正面から見たときに柱間が三間あり、屋根の一方がゆるやかな反りをもって流れるように延びている神社建築をいいます。
※3元稲荷古墳:元稲荷古墳は前方後方墳ですが、その名が示すように、もとは後方部の頂上にお稲荷さんの祠(ほこら)がありました。向日神社に残る江戸後期の図面には、現在の社務所のすぐ西側の部分に「稲荷道」と書かれています。現在、境内から勝山公園の中にある元稲荷古墳へ続く小径と同じような道が、江戸時代からすでにあったようです。
※4北山遺跡:向日神社周辺の段丘上に弥生時代の高地性集落と考えられる。北山遺跡があります。ここはさらに縄文時代をさかのぼる旧石器時代の遺跡でもあり、寺戸町岸ノ下遺跡と同様のナイフ型石器が出土しています。
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