わがまち紹介
目次へ|戻る(その2/5)次へ(その4/5)
平成20年2月 わがまち紹介
“ 1200年前の都と西国街道の文化にふれる:向日市 ”
【 その3/5:向日市文化資料館 】

 向日市文化資料館は、古代の都長岡京の宮跡の一角に遷都1200年(1984)を記念して建設・開館されました。
歴史学、考古学を中心とした資料を調査研究し、系統的に整理しています。館内には、乙訓地域で出土した考古資料を展示しています。
 資料館でボランティア活動を行う市民グループ「向日市文化資料館アニメーター」が活躍されています。

長岡市文化資料館正面/玄関内部

乙訓の文化財分布模型と説明風景

長岡京の遷都を行ったのは桓武天皇です。
桓武天皇の母親は百済系渡来人でした。
天皇陛下が68歳の誕生日に先立って行った記者会見(2001年日韓共催サッカーワールドカップの前)で「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べておられます。

 桓武天皇は、祟りの充満した平城京を抜け出し、すべてを一新してやり直すために新都の建設を思い立ったのでしょう。
桓武天皇の信頼が厚かった藤原種継の進言により783年に新都が決まりました。
 ただ都を移すことには反対の意見が強かっため、当時副都として存在していた「難波宮」を移転するということで新都造営を進めて784年長岡京に遷都した。
相当以前から綿密な準備をしなければこのような短期間で出来ない。
785年に藤原種継は暗殺されています。

史跡長岡京築地跡の復元/大極殿模型で説明風景

この後長岡京は洪水が起こり疫病が流行って、凶事(母、皇后の死亡など)が続いたため、早良親王の「祟りじゃ!」ということになるのです。
そして、たった10年で長岡京を捨て平安京へと遷都することになった。
宅地開発が急激に進む中で「まぼろしの都」といわれた長岡京の解明に生涯を捧げた中山修一先生の功績も大きいし、その後の調査で平城京の愛好家がますます増えることでしょう。

館内説明風景

館内説明風景

このページの先頭へ戻る