わがまち紹介
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平成20年1月 わがまち紹介
" 新春の三島地区を散策:総持寺・三島町地区 "
【 その2/4: 総持寺 】
 総持寺は、平安時代に藤原山蔭により創建されました。
藤原山蔭は、藤原高房の二男として824年生まれ、成人してからは、春宮大進、蔵人、右衛門少將等などを歴任し、貞観17年(875)に従四 位下蔵人頭、右近衛中將、ついで右大弁となります。清和天皇が譲位した時、官を辞すことを乞うも許されず、元慶3年(879)には参議、仁和2年 (886)には従三位中納言となり、翌年、民部卿となり、仁和4年(888) 、65才で没しています。
 総持寺に残っている縁起絵巻によれば、藤原の高房(山蔭の父)が淀川を下っている途中、漁師達に捕らえられている一匹の大亀を助け、河に放してやります。
 その後河口付近で一夜を明かした高房は、継母のたくらみにより、山蔭を河に落とされてしまいます。河に落ち、行方がわからなくなった幼い山蔭を嘆き悲 しみ、高房は観世音菩薩に祈り助けを乞います。すると、命を救った大亀がその背に元気な山蔭を乗せて現れました。
 高房はこのことに感謝し、観世音菩薩像と寺を造ることにしました。そして、大宰府に赴き、観音菩薩像を彫るのに適した香木を遣唐使に依頼しますが、香木が手に入らぬまま、志なかばでこの世を去ってしまいます。

 その後、山蔭が大宰府に赴任した時に偶然にも香木を手に入れることができ、高房の遺志を継ぐ事を決意します。
 任期を終え都に帰る途中、茨木の地にさしかかったところ、香木が急に重くなりました。山蔭は、この地がゆかりのある地であると知り、この地に寺院を建立する事を決意します。すると香木が急に軽くなったといわれています。

総持寺山門

境内/本殿

 都に帰った山蔭は、仏師を探すために、奈良の長谷寺に籠もり祈願します。
ある朝、観音様のお告げにより、一人の童子にめぐり合います。山蔭はその童子に屋敷に来るように言い、長谷寺を出ます。
屋敷を訪ねてきた童子は、山蔭の家来たちの前で十一面観音を彫るよう命じられた。
そこで見事に彫り上げ一同を驚嘆させます。

 その後山蔭はこの童子に、観音菩薩を彫るように命じます。すると童子は「仏様を彫刻する千日の間は誰もこの仏舎に入らぬ事。また、山蔭卿自身で私の食事を作ること」と山蔭に申し出たのでした。
 山蔭はこの申し出に従い、山蔭自身が毎日違った料理をつくります。造仏を初めてより千日目の早朝、「長谷の観音様はどちらに」と声が聞こえると、仏舎よ り「行基菩薩よ、今帰るところよ」との答えがあり、童子は空に飛び立ちました。

山主のお話

山蔭卿が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事を御供えされた千手観音様が亀の座に立った姿で、奉られていました。これが総持寺の本尊となりました。
 そして、この事が「山蔭の千日料理」として称えられ、包丁道の祖として尊敬を集め、"山蔭流庖丁式"として現在に伝えられています。

開山堂/稲荷神社

ぼけ封じ/ペット供養塔

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