平成19年9月 わがまち紹介
"淀川を知り・京街道の宿場町を散策:枚方市"
【 その6/6: 淀川資料館 】
徳川の初期、世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。
全長五十六尺(約17b)幅八尺三寸(約2.5b)乗客定員28人〜30人、船頭は当初4人と決められていましたが、幕末には“早舟三十石船”が現れ船頭も4・5人〜5・6人になり、上り下り共時間が短縮されました。
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淀川資料館 |
三十石船(復元) |
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↑ 淀川資料館には、人々のくらしと淀川のかかわりを偲ばせる資料や 絵画、当時の道具、模型などが展示されています。 淀川改修着手100周年記念事業の一つとして昭和52年(1977)にオープンした。 明治時代、淀川改修工事においてオランダ人技師 デ・レーケは、「粗朶沈床工」を用いて航路を確保しました。 舟運の衰退後、この粗朶沈床工が現在のワンドとなり、天然記念物のイタセンパラが生息するなど、生物にとって貴重な環境となっています。" |
枚方を中心に上下一里(4`)付近を通る三十石船などに、餅・汁・酒などを商っていた小舟で、“餅くらわんか”“ごんぼ汁くらわんか”などと汚い言葉で食べ物を売りにきたことから有名となり、“くらわんか舟”と呼ばれるようになりました。 この地方では古くから悪霊を追い払うのに悪態を吐くという習わしがあり、旅の安全や無病息災を願うという意味で使われましたので、旅人に大変喜ばれたということです。 |
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淀川資料館で説明会 |
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← 旧毛馬洗堰と旧毛馬閘門遺構 新淀川の開削により、旧淀川(大川)の治水安全度は向上した。このため、大川への流量調節を行うために建設されたのが毛馬洗堰である。当時は、舟運が盛んであったため併せて毛馬閘門も建設された。水位の異なる水域間の通船のため、閘室を有し水位調整機能を持たせた。 → 枚方市駅近くの道標 岡本町地区、京阪電車駅近郊にも多くの宿場町跡が発掘されている。 | ||
旧毛馬洗堰と旧毛馬閘門遺構 |
枚方市駅近くの道標 |