わがまち紹介
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平成19年9月 わがまち紹介
"淀川を知り・京街道の宿場町を散策:枚方市"
【 その5/6: 枚方本陣跡他 】

枚方宿は、本陣(大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿)、脇本陣、家老専用本陣、問屋場(といやば、馬や人足の手配場所)、旅籠(はたご、庶民の宿屋)55軒、船宿、茶屋、寺院、民家約400軒などが軒を連ねていた。
参勤交代の際には親藩や譜代など徳川家に縁故の大名が枚方宿で休泊、1841年、紀州徳川家11代藩主徳川斉順の参勤交代では武士1,639人、人足2,237人、馬103頭が枚方宿で休泊したそうです。

枚方浜(問屋浜)跡

枚方寺内町(じないまち)

↑ 淀川舟運・枚方浜(問屋浜)跡
淀川べりに案内板がある。運行手形を持つ特権川船のことを過書船と称した。
享保初年(1716)には乗客を主とした三十石船671艘、貨物運送を主とした二十石船507艘が大坂と京・伏見の間を航行していた。
一方、過書船の営業独占に対抗して元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められ、両者は激しく競合した。ここ泥町村にはこの案内板の斜め前に伏見船船番所があり、上流に向かって船高札場、過書船船番所があった。
船番所は、淀川を上下する船を監視したという。

↑ 寺内町(じないちょう・じないまち)とは、室町時代に真宗などの寺院・道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。 濠や土塀で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者等が集住した。
← 浄念寺(じょうねんじ)浄土真宗
明応4年(1393年)、蓮如上人の弟子であった岩見入道浄念により開基。元文四年(1739年)、西本願寺の門跡御坊。願生坊の「東の御坊」に対して、「西の御坊」と呼ばれた。 本陣の西側に位置し、前を通る街路は本陣防衛のために左右に折れ曲がった枡形となっている。明治13年4月から明治21年7月まで、北河内の郡役所が設置された。

浄念寺

枚方宿本陣は東海道(京街道)に面して約20間、奥行きが24間程の土地を有し、ここに約200坪の建物が建っていた。
現在本陣跡には淀川左岸水防組合事務所が建ち、「歴史街道」の立看板がある脇本陣は、本陣の補助機関として本陣の東側に置かれていた。枚方宿には東海道53宿と同様、人足100人、馬100頭の常備が義務づけられていた。問屋役人は、宿各村の有力者がなり、7日間交代で勤めた。枚方宿の囲米(非常救済用)を貯蔵する郷蔵も4か所にあった。

明治天皇御昼饗所

枚方本宿跡

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