わがまち紹介
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平成19年9月 わがまち紹介
"淀川を知り・京街道の宿場町を散策:枚方市"
【 その2/6: 枚方宿 】

枚方は、江戸時代、天下を統一した徳川家康が宿駅制度の整備をすすめ、元和2年(1616)、京と大阪のほぼ中間にできた宿場町として栄えており、町家の表(東海道側)では、紀州・泉州の大名の参勤道路、裏(淀川側)では、淀川を上下する過書船の中継港として、京・大阪間の要所となり京街道一にぎわっていた。
枚方宿は、泥町、三矢、岡、岡新町の4村で構成され、東西13町17間(1.5km)、 道幅2間半(4.5m)で、人足100人、馬100疋を常備することになっていた。

郵便渡し碑/説明風景

枚方宿説明盤/西見附

↑ 郵便屋の渡し跡
昔、淀川には橋がなく、ここには唯一の交通手段である大塚の渡しがありました。 明治10年に、対岸に鉄道が通ってからは、こちら側の郵便物を渡しで運び、国鉄・高槻駅まで運ばれたそうです。 石碑によると毎日12時に渡しが出たとか。今でも「船がでるぞ〜」と聞こえてきそうな気がします。

← 京街道の街並み整備保存
枚方市では地域の特性を生かしたまちづくりが進められています。
枚方宿地区では、街道を中心に街なみ環境整備事業という国の制度を活用し、住宅の修復や修景に対して助成を行い京街道の街並みを整備しています。
静かな昔の京街道の復活を望みます。

京街道の街なみ

うだつ(卯建)は、屋根のついた小さい壁で、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に、隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたもの。後には装飾的な意味に重きが置かれるようになり、自分の財力をアピールする為の指標。
設置するにはそれなりに費用も要し、比較的裕福な家に設けられることが多い。慣用句として使われる「うだつがあがらない」の語源となっている。

鍵屋の卯建/卯建のある建物

卯建のある枚方宿の街並み

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