平成19年9月 わがまち紹介
"淀川を知り・京街道の宿場町を散策:枚方市"
【 その1/6: 概 要 】
月 日 | 平成19年9月20日(木) | 集 合 場 所 | 阪急高槻市駅 京阪バス枚方行乗り場 | 天 候 | 快 晴 |
順 路 |
阪急高槻駅バス停 → 枚方公園口下車 → 郵便屋渡しの碑 → 鍵屋資料館 → 船番所跡 → 浄念寺 → 本陣跡 → 淀川資料館 → 枚方市駅バス停 |
そ の 他 |
1)枚方観光ボランティアガイドの寺崎みち様がバス停で迎えて下さいました。 バス停近くから案内をして頂き最終の枚方市駅バス停まで長時間案内して頂きました。 2)枚方宿鍵屋資料館では鍵屋資料館研究員の衛藤文代さんに、別棟の2階大広間を開放して頂き、説明をして頂きました。 3)淀川資料館では館長はじめ館の職員の方に説明をして頂きました。 有り難う御座いました。 |
記 |
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枚方は、鎌倉時代には、枚方に街道の関所があり、関銭(通行料)を取っていたらしい。 東海道57次は、参勤交代の西国大名が入洛し朝廷に接触するのを防ぐため、伏見を通る洛中を迂回する経路とした。 豊臣ゆかりの関西では「京街道」あるいは「大阪街道」と呼んで、あえて東海道という表現を使わなかったという。 江戸時代には、京街道の宿場町また淀川舟運の中継港として栄え、周辺農村にとっては、物資の集散地および遊興場の役割を果たしていた。 郵便屋の渡し跡 昔、淀川には橋がなく、対岸の摂津の国に行く唯一の交通機関は渡し船(大塚の渡し)であった。 明治10年、高槻に鉄道が開通したことにより、淀川左岸一帯の郵便物は、逓送夫(郵便屋)がこの渡しを利用して淀川を渡り、国鉄(JR)高槻駅まで運んでいた。 枚方大橋は昭和5年(1930)に初代の枚方大橋が完成している。 両端部は15連の直弦トラス構造であり、京阪電気鉄道の旧宇治川・木津川鉄橋を移設・転用した。中央2連の曲弦トラスが新規製作された。 2車線の道路橋として使用された。 現在の橋は二代目であり、旧橋の老朽化による代替と交通容量拡大のために 都市計画道路 枚方高槻線の一部として計画され、昭和42年(1967)に先ず上流側の2車線分が竣工、旧鉄橋を撤去し、昭和46年(1971年)に下流側を拡張・4車線化した。 鍵屋資料館 鍵屋は、天正年間(1573〜92年)の創業と伝えられ、伏見と大坂を結ぶ三十石船の船宿として江戸時代に栄え、近年まで料亭を営んでいました。 この鍵屋が平成13年7月3日、「市立枚方宿鍵屋資料館」としてオープンしました。 平成9年に市の文化財に指定された鍵屋主屋は淀川沿いの旧東海道(京街通)に面し、通り庭、起り屋根、摺り揚げ戸など、江戸時代の町家の構造を残す貴重な歴史的建造物です。 館内は、研究員に丁寧に説明して頂きました。有り難う御座いました。 船番所跡 幕府は淀川を上下する船を監視するために、過書船、伏見船の番所を泥町村に設置した。 浄念寺 蓮如上人の弟子であった浄念が開基と伝えられる浄土真宗本願寺派の古刹。西本願寺の門跡御坊で、枚方御坊として知られる東の願生坊に対し、西の御坊と呼ばれ、枚方宿の有力者が集まる寄合所の役目も果たしていました。明治6年、万念寺廃寺に際して仏像などが浄念寺へ移されました。 本陣跡 江戸時代、参勤交代などで京街道を通る大名が休泊した枚方宿本陣があったところ。明治3年に取り壊され、現在は淀川左岸防組合事務所になっています。 淀川資料館 淀川に関する歴史、文化、自然の資料館。 明治時代からの淀川に関する貴重な文献、諸資料を豊富に保管している。 館の職員の方が、パワーポイントを使用して説明され、質問の回答は館長がして下さいました。 |