わがまち紹介
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平成19年8月 わがまち紹介
"幻(まぼろし)から現(うつつ)の都のロマンを尋ねる:長岡京市"
【 その3/4:勝龍寺城公園・勝龍寺 】

背景は勝龍寺城公園です。

勝龍寺城は、現在は勝竜寺公園として、本丸と沼田丸が発掘の結果に基づいて復元されている。
城の心臓部にあたる本丸は東西約180m、南北70mでその周囲には水を湛えた幅広い堀が造られその内側に高く盛り上げた土塁を巡らしている。
土塁の裾には石垣が築かれていた。
堀の深さ3m、幅15mを越えるとのこと。
城門は、材料を含め原型に復元されているとの事です。

本丸と城門

北東角の隅櫓

この地は西岡地方と呼ばれ、京都の南西部を守る要衝の地で、淀川沿いの男山、山崎方面に進出してきた南朝方に対する備えの城であった。
歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川忠興に嫁いだ城で、後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。
細川ガラシャ(明智玉)は明智光秀の三女で細川忠興の妻。名は“たま”(玉、珠など)。キリシタン女性としても有名。
↓ ぼけ封じ観音
現代の老人問題は深刻です。
あちこちに「ぼけ封じ観音」が設立されている。
私達が皆ともに心も身体も健康で楽しい日々を過ごせる様に 「心や身体のぼけを取り除いて下さる」観音さまだそうです。
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の一つとのこと。
毎年秋には、この十ヶ寺が順番の御寺に集まり、ぼけ封じ大法要を行っています。

細川忠興と玉(ガラシャ)の銅像

← 勝龍寺
平安時代初期の大同元年(806年)、空海が建立。当時は長安の青龍寺で学んだことから青龍寺と呼ばれた。
大干ばつ大飢饉の都市に千観上人の祈とうで雨が降り、龍神に勝ったという意味から勝龍寺とされました。
鐘楼の鐘は大阪の陣のどさくさで持ち去られ、後に淀川で発見される。その後転々とし今は大阪府の指定文化財になっているという。

勝龍寺

ぼけ封じ観音さん

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