わがまち紹介
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平成19年8月 わがまち紹介
"幻(まぼろし)から現(うつつ)の都のロマンを尋ねる:長岡京市"
【 その1/4: 概 要 】

背景は神足神社本殿です。

月    日 平成19年8月23日(木)
集 合 場 所 JR長岡京駅 東口広場
天    候 真夏の薄曇り
順   路 JR長岡京駅 → 神足遺跡 → 土塁・空堀 → 神足神社 →  勝竜寺城公園 → 勝龍寺 → 中山修一記念館 → サントリービール京都ビール工場 → バスで阪急長岡京駅
そ の 他 「長岡京市ふるさとガイドの会」 A班班長 郷地英治さんには判り易い順路図(所要時間と距離を記載)の資料を作って頂きました。
当日は、郷地さんと乾さんにわかり易く説明をして頂きました。
有り難う御座いました。

長岡京市は、518年、継体天皇は筒城宮から弟国宮(おとくにのみや)へ遷宮します。
宮跡の推定地は、現在の京都府長岡京市今里付近と考えられています。
8世紀後半には「長岡京」が当時の日本の都として置かれたところです。
市域には恵解山古墳をはじめ多くの古墳群、乙訓寺や長岡天満宮等の神社仏閣が点在し、古い歴史と文化を感じさせるまちです。
また、古くから交通の要衝として栄え、昭和40年代からは京都や大阪のベッドタウンとして大きく発展してきました。
長岡京市は、京都・大阪の二大都市を結ぶ軸の中心に位置し、北は向日市と京都市、東は京都市、南は大山崎町、西は大阪府と接しています。
JR長岡京駅は、長岡京市の中心部からはやや離れてはいるものの(阪急京都線の長岡天神駅の方が中心部に近い)、企業への通勤客を中心に多くの利用客がいる駅とのこと。
神足遺跡<こうたりいせき>
 神足遺跡には、今から1万1千年前の旧石器時代から室町時代までの複合遺跡が残っている。
出土物には、石鏃、石剣、石包丁、石斧などの石器類や、 壷、甕、高杯、鉢などの土器類が大量に見つかっているとのこと。
今は小学校の校庭です。
土塁と空堀跡
 神足神社の参道の横に残っている。
勝龍寺城は、南北朝時代の暦応2年(1339)北朝方の前線基地として細川頼春が築いたとされ、元亀2年 (1571)織田信長の命を受けた城主細川藤孝が改修を行い、二重の堀と土塁を設けた。水の溜まった形跡が無く空堀とみられる。現在も竹藪の中に一部が残っている
神足神社
この神社は、旧神足村の産土神であり、延暦15年(796)創立と伝える古社で、第55代・文徳天皇の斉衡元年(854)に国の官社にあげられている。
又、「延喜式」にある式内社の一つである。祭神は「舎人親王」、親王は「日本書記」を編纂したことでよく知られている。
勝竜寺城公園
歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川忠興に嫁いだ城で、後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。
鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、我が国の城郭史上でも貴重なモノであることが発掘調査で明らかになりました。
この跡地が管理棟(資料展示室)、櫓や庭園などを備えた都市の公園の姿で復興しました。
中山修一記念館
中山修一先生は、約1200年前、この地にあった日本の都「長岡京」の歴史的解明に生涯を捧げ、それまで文献上の存在だった「幻の都」長岡京が実在したことを初めて証明しました。
もしこの発掘調査が10年遅れていたら都市化の波に押され実証できなかったかもしれないとのことでした。
この記念館は、先生のご遺族から寄付された生家の一部を利用し、先生の足跡や研究成果を一目で見られる施設として整備したものです。

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