わがまち紹介
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平成19年7月 わがまち紹介
"淀川の偉大さ大切さと介護を考えるまち:大塚地区"
【 その7/7:洪水記念碑 】

洪水記念碑
 大冠の人々をはじめ"大塚切れ"の修復に関わった人々の水との闘いのモニュメントとして、昭和六(1931)年8月に竣工・除幕された。
"大塚切れ"は、大正6年(1917)9月28日近畿地方に上陸した雨台風による猛烈な豪雨が降り続き、10月1日 午前4時 大塚堤防の450mを超える決壊と番田地域の堤防が決壊して、その濁流が大冠村を水没させたことは言うに及ばず、高槻市は国鉄(現在はJR)高槻駅以南が軒下まで浸水したと記録されている。
 大塚切れでの被害は、大阪府下で全壊家屋212戸、浸水家屋16,733戸、死者・行方不明者26名、浸水田畑5,850ヘクタールといわれ、その大部分が高槻市域であった。
 堤防の修復は10月6日から着工され、10月26日には再び淀川の増水で完成間近の堤防が流失する被害が出たり、水門の開閉をめぐって利害があい対立する二つの村民が鍬・竹槍を持って対峙するという場面もあったりしたが、11月8日から再び復旧工事が再開され、翌(1918)年4月30日に当面の堤防改修工事は完成したと記録されている。
 その後6ヵ年計画による淀川改修増補工事が施工され昭和8(1933)年に完工している。
 引き続いて昭和8(1933)年に淀川の低水工事、昭和14(1939)年からは淀川治水工事が行われ、とりわけ1,350mに亘って堤防を引っ張って動かすという"大塚引提工事"によって、内陸部へ約100mの堤防移転を行った。それに伴い大塚町では昭和15〜17(1940〜42)年にかけて約70戸の全戸移住が実施された。
 洪水記念碑は、大塚の人々と水との闘いの記念碑で、枚方大橋東側、大塚3丁目地内の堤防の中腹にその偉容を止めている。
堤防の中腹に記念碑があるのは、その後堤防がかさ上げされたのではないでしょうか。
淀川治水工事により現在は被害の心配のない安全な生活地域が形成されているのでしょう。

 記 坂本 勝    


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