わがまち紹介
目次へ|戻る(その3/4)

平成19年6月 わがまち紹介
"四季を味わい、古き都を散策:長岡京市"
【 その4/4: 寂照院・走田神社 】

背景は、寂照院

寂照院は海印寺十院のひとつ。
海印寺は9世紀はじめに僧道雄(どうゆう)が華厳宗を学び、国家を守る道場として建てたのが始まり。華祥4年(851)年には国から毎年決まった援助を受けるなど、国家や皇室の庇護の元におおいに栄えたが、平安時代中期以後は衰え、後期には摂政家藤原基房の寺となった。鎌倉時代に入り僧宗性(そうせい)が復興に努めるが、やがて衰え寂照院が海印寺唯一の寺となった。仁王門左右には康永3年(1344)に造立された木像の仁王像がたつ。
海印寺は今でも地名で残っている。

寂照院山門

寂照院仁王門

寂照院は我が国における孟宗竹(もうそうだけ)の発祥地とも言われている。
中国江南地方原産の孟宗竹を、1227年中国の禅僧道元が日本にもたらしこの地に植えたという言い伝えが残っている。
境内には、孟宗竹の発祥地の碑が建っています。
境内には竹はなく、走田神社の前にその竹を植えたのかその一角がある。
乙訓地方は今でも有数の「たけのこ」の名産地です。

院のすぐ裏に走田9号墳(海印寺古墳)がある。
7世紀はじめの円墳で石室は石材を組み合わせた家型の石棺が置かれていた。
この石棺は現在、長岡京市立埋蔵文化財センターの入り口に置いてあるが、古墳は補修処理がされて公開されているので見学した。
この一帯を走田古墳群と言われているが発掘調査は進んでいないとのこと。

走田9号墳 

走田神社:走田とは走り穂、初穂を作る田、つまり早稲田の守護神として有名です。
天津児屋根命(あめのこやねのみこと)など春日四神を祭る古社で、奥海印寺と長法寺の産土神(うぶすながみ)となっています。
奥海印寺と長法寺地区の氏神である走田神社に伝わる「的矢討ちの儀式」は、鎌倉時代に地元の豪族が弓を引いて厄払いや五穀豊穣を祈願したのが始まりとされ、奥海印寺の高橋が伝承してきました。

走田神社鳥居/参道

走田本殿/拝殿

このページの先頭へ戻る