平成19年6月 わがまち紹介
"四季を味わい、古き都を散策:長岡京市"
【 その3/4: 埋蔵文化財センター 】
長岡天満宮から15分程歩く。埋蔵文化財センターは、まわりが丁度田植の終わった田圃。 玄関の前には、神足遺跡郡の9号遺跡から出土した、石棺が置いてあります。 エントランスホールには、乙訓地区全域を含んだ大きな航空写真が展示されています。 この写真で長岡京市の地形や交通の要所として昔も今も変わらない事を説明して頂きました。 この説明で、名神高速道路の山崎インターの重要性を認識させられました。 |
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9号遺跡の石棺/ホールの大航空写真 |
館内説明風景/説明は山本先生 |
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長岡京市の歴史は、人類がまだ石で造った道具しか使用していなかった時代までさかのぼる歴史ある地域です。 食生活は生や火で焼くだけであったが、今から1万年前、土器を作り使用することになった。 土器の使用は「煮る」という調理方法を可能にし、その後の食生活に大きな変化をもたらした。 当時の食生活が出土品の展示からわかるようにもなっています。 |
飛鳥・奈良時代には天皇を頂点とする古代国家がしだいに確立し、律令制度という法律に基づいて政治のしくみができあがった。 乙訓地方では民衆を治めるために郡司がおかれ、税を取る目的で民衆に与えた土地の区画(条里)が現在も水路となって残っているとのこと。 乙訓地方はそれ以前は弟國と書いたようでその遺跡も無造作に陳列棚に飾っています。 この弟國と書いた遺品はここでしか見られないとのこと。 |
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館内陳列風景 |
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桓武天皇は、藤原種継の進言により新都が決まったと言われています。 この後長岡京は洪水が起こり疫病が流行って、凶事が続いたため、早良親王の「祟りじゃ!」ということで、たった10年で長岡京を捨て平安京へと遷都することになった。 桓武天皇が新たに未開の土地を開拓して長岡京を作ったのでなく、継体天皇に関係していた部族が住んでいたところでもある。また弥生人も住んでいた。 掘れば長岡京期以前の遺跡が多く出てきて、どの時代の遺跡かを慎重に調査を要するとの事でした。 | ||
土器のかまどと釜/見覚えのある釜 |
長岡京宮の井戸遺跡/弟國と記載している土器 |