平成18年12月 わがまち紹介
芥川仇討の辻 一里塚 西国街道 教崇寺 石風呂
"高槻西国街道を散策:芥川町"(その2/4)
【 西国街道・教崇寺 】
芥川仇討の辻
芥川宿の仇討とは今からおよそ300年程前江戸時代初期のできごとです。
石見国吉永城下(現在の島根県益田市)で二人の若侍が美しい稚児の争奪を巡る争いで邪推からもう一人の藩士を江戸城で殺してしまった。殺された藩士の子息助三郎は加藤佐馬之助の曾孫という貴公子であった。
助三郎は京で剣客につき剣術を学び諸国を遍歴すること二年半。仇が芥川宿の旅籠に入る姿を見届けました。
仇が宿を立ち去るところを、この辻で声高々と名乗りをあげて踊りかかり不倶戴天(ふぐたいてん)の仇を討ち取り本懐を遂げました。時に若干14歳。討たれた八之丞の懐から1通の書状があり、「自分は2人も殺した人間であるため討たれて当然であり且、討つ方には咎(とが)はない。」とあった。この仇討は双方が当時の武士道のモラルを貫いた美談として語られているとのことです。
風俗史の上からも貴重な資料「続近世畸人伝」にも取扱われている。
一度立ち止まって立て看板を読んでみよう。
↑ 芥川一里塚
一里塚は江戸時代に道程の目印として一里ごとに塚を築き榎の木を植えた場所で、この芥川一里塚も昔は街道の両側にあったのが、いまは東側だけが残っています。
← 旧芥川宿
芥川一里塚から芥川橋までの間約400mの町並み。かって旅籠屋などが建ち並び、大名行列や旅人らが行き交う北摂の要地で、本宿でなく「間の宿」(中休みの所)として栄えた。
今でもその面影を残す家が残っています。
教宗寺(きょうそうじ)
弘安10年(1287)に建立。江戸時代の芥川絵図にも描かれ、現在も当時の面影を残したお寺です。
「神恵山教宗寺」は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、本尊は阿弥陀如来である。
境内の一角、本堂の手前に花崗岩の自然石をくり抜いて作った長さ約2m、幅約1m、深さ約35cmの石槽が置かれている。
石槽には石棺と石風呂の二つの場合があるが、この石槽には底に小さい水抜き孔があることから、石風呂と考えられている。