わがまち紹介
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平成18年11月 わがまち紹介
"歴史あるまち:清水地区"(その5/6)
【 聞力寺・寒天工場建屋・神服神社・清水コミセン 】

聞力寺
聞力寺:真宗大谷派【東本願寺】
阿弥陀如来像(立像)を本像として、慶弔7年(1617年)の創設と伝えられる。
天明7〜8年(1787〜8)頃、京都の伏見で寒天づくりを学んだ宮田半平が、城山の渓谷で寒天の試作に成功したと言われている。
境内には、その宮田半平の顕彰碑が建っている。
半平の功績をたたえて大正3年(1914)に建てられた石碑です。

聞力寺

寒天工場建屋

神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。  第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。

高槻の山間部で、寒天づくりがこれほどまでに盛んになったのには理由があります。その1つに、製造に適した冬の寒さがあげられます。というのも、寒天は、トコロテンを夜間の厳しい冷気で凍らせ、日中に天日によって溶けだした水分を蒸発させることを繰り返してつくられるからです。2つめは、テングサを煮溶かすのに必要な薪や炭が豊富だったことです。3つめには、原料の入手や製品の出荷のために、淀川の河港・前島と原の間が「京坂越え」と呼ばれる山道で結ばれていたことで、淀川の水運が利用できたことです。

神服神社

清水コミュニティセンターは、平成7年に市内13番目のコミュニティセンター開設されました。昭和63年に清水コミュニティセンター協議会が24自治会で結成され拠点作りの必要性を要望されてから、8年後に完成しました。
古藤幸雄先生は、清水コミュニティセンター開設10周年記念誌の「私たちの町、故郷〜清水地区〜の歴史についての著者です。
今回、「清水地区の歴史について」の講義をして頂きました。

清水コミセン

古藤幸雄先生の講義風景

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