わがまち紹介
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平成18年 9月 わがまち紹介
"自然と開発の調和を問う:成合地区"(その7/9)
【タチソ その2/3】


地下壕内部を見学
中部軍管区司令部関係の地下施設工事に関する資料によれば、 高槻市成合地区の場合、 1944年9月末、陸軍憲兵曹長・行政官等3名が市庁舎に関係地主を集めて、
(1)成合地区への川崎航空機の地下軍需工場の建設計画
(2)これに必要な労務者用宿舎や倉庫とその建設用地としての農地と山林の強制収用
(3)農地の坪当たり3銭の一時賃貸契約
(4)収用期間は1944年10月より陸軍省が不要と認める時まで
(5)現況復帰の上での返還などの指示・説明を行った

地下壕出入り口
その関係地域は成合地区内の水田22筆、山林6筆からなるものであった。
米軍戦略爆撃調査団報告書には、「このトンネル群は当初陸軍の主要な貯蔵庫の1つとして1944年11月に政府の手で工事が開始されたのであるが、1945年2月になって、川崎の工場として使用する事が決定された。」とあり、当初の使用目的についてはさだかでない。

ダイナマイト挿入の穴
要は軍が計画し、その監督下に技術的には国鉄岐阜地方施設部が中心となり、間組とその関連下請け業者が請負協力する形で工事が進められたのである。
この工事に動員された労働者は、地元の村民、 高槻医専・北野中学・関西工業学校などの動員学生のほか、最も危険なトンネル開さく分野については韓国人労働者が投入された。

内部の大きさ
その数3,500人とも言われる。その他、滋賀県の土倉鉱山の労働者も動員された模様である。
高槻市タチソ保存の会 橋本徹氏より受領した資料や説明で昭和19年秋から翌年20年の終戦までの短期間であれだけの地下壕を作るには過酷な作業で有ったかが想像出来ます。

地下壕を出ての感想は?

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