わがまち紹介
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平成18年 3月 わがまち紹介
(その2/2)
”古代のロマンのまち 古曽部”
乾性寺・伊勢寺・文塚・不老水・古曽部窯跡・伝能因法師墳

文塚

5.文塚(ふみづか)
 伊勢寺から、ゆるやかな坂を下っていくと、文塚があります。 平安中期の歌人・能因法師(のういんほうし)の吟稿(ぎんこう=和歌の原稿) を埋めたところと伝えられています。 晴れた日には、はるか南に生駒の山並みが望め、塚は畑の中にあって、碑に  わが宿の 梢(こずえ)の夏になるときは 生駒の山ぞ見えずなりける とありました。はるか南に生駒の山並が望めたという歌ですが、南を見ても今は家が見えるばかりでした。
  能因が私の書いた物はたいしたものでないので埋めてほしいと遺言をしたという。しかし、村の人に好かれていた能因だから、このような文塚が村人たちによってつくられたのだという。

不老水

6.不老水(ふろうすい)
能因法師は日常生活に必要な水としては「花の井」から得ていたようであるが、老いを知った能因法師は、不老不死を願い、特に煎茶に用いる水を汲んだのがこの井戸、不老水であったとされている。
かつて、この井戸の名声は高かったようで、大正11年(1922年)発行の大阪府全誌に「寒冽にして茶に適し、その名遠近に喧傳して、普く茶客の知るところなり」と記載されている(高槻市教育委員会名の解説掲示板による)。名水スポットとして、大阪府内では五ヶ所選ばれている(内一ヶ所は環境庁の名水百選に指定されている)が、その内の一つがこの不老水である。

古曽部窯跡

7.古曽部窯跡(こそべかまあと)
 古曽部窯は、寛政年間の始め(18世紀末)頃、京都で製陶技術を習得した五十嵐新平 (いがらししんぺい)が、古曽部で開いた登り窯である。江戸後期から明治時代の間、 古曽部焼は庶民的な陶器として親しまれたが、四代目信平在世中に窯が廃された。
ここで焼かれたのは、主として日用の雑器(飯茶碗・小皿・湯飲み・土鍋・火鉢など) であったが、合間に抹茶椀・水差し・菓子鉢・香合・茶托なども焼かれた。
作風は荒々しく力強い初代、民芸的な二代目など、全体的にはひなびた味わいがあり、 とくに茶器は京阪の文人たちにも愛好された。

伝能因法師墳

8.伝能因法師墳(でんのういんほうしふん)
 田んぼの中にぽつんとあるこんもりとした塚が能因塚です。 三十六歌仙の一人である能因法師のお墓です。能因法師は伊勢姫を慕って移り住んだとも言われ、伊勢寺から近いことを考えるとそうなのかなと思えます。
能因法師墳は、東西16m・南北25m・高さ1.8mの小塚で、平安時代中期の歌人、能因法師の墓と伝えられている  長和3年(1014)頃、永トは出家して名を能因と改め、やがて古曽部に居を構えて歌道に専念した。それは『今昔物語集』(12世紀はじめ成立)に古曽部入道とあることからも知られている。
能因は、ここを拠点として、各地を旅し、優れた作品を数多く残している。
能因法師はここ古曽部に住み着き生涯を閉じた僧で歌人です。
「あらし吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川のにしきなりけり」は小倉百人一首にある能因法師の和歌です。
 墳墓正面の顕彰碑は、慶安3年(1650)高槻城主永井直清が建立した。碑文は儒学者の林羅山(はやしらざん)によるもので、能因の事跡が刻まれている。
新しい碑には
 「山寺の春のくれ やまざとをはるの夕ぐれきてみれば  いりあひのかねに花ぞちりける」

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