わがまち紹介
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平成18年 3月 わがまち紹介
(その1/2)
”古代のロマンのまち 古曽部”
乾性寺・伊勢寺・文塚・不老水・古曽部窯跡・伝能因法師墳

 古曽部地区は、優雅で情熱的な女流歌人伊勢姫と、その作風にあこがれて、ゆかりの地"古曽部"に移り住んだ能因法師。有名歌人ふたりが、世のしがらみから逃れるように移り住み、歌の世界に没頭したという。
 今回は、乾性寺の住職の好意を得て、この紅梅の満開の時期に訪問させて頂いた。
当日天気予報では、午後3時頃から雨との予報であったが、昼頃から小雨となり、春雨にうたれる真紅の紅梅もまた格別であった。
今でも高槻の市街地からこんな近くに、静かな町並みを残して居るのです。


昼神車塚古墳

1.昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)
 昼神車塚古墳は北側の天神山の南側裾部分にあり、北向きの前方後円墳である。
規模は全長約60m、前方部幅約40m、後円部径約35mで、後円部より前方部の方が高く造られているようであり、これが特徴的であるとされている。
この古墳が造られたのは6世紀中頃までと考えられており、被葬者はこの地を支配していた首長であろうと推定されている。
昭和52年にイヌやイノシシ、角笛を持った狩人などの埴輪が出土し、古代の狩猟の様子がを知ることが出来る古墳として注目を集めました。
現在は、複製を展示し、古代の狩猟を再現している。

雨の中の散策

2.乾性寺(けんしょうじ)
 天満宮の東側の竹林の山道を通り天神山丘陵の東麓に位置するお寺です。
加賀山と号して日蓮宗に属し、題目宝塔と釈迦多宝二仏を本尊とする。1619年(元和5年)に日進上人が創建したといわれる。
庭 には、有名な梅がある。この梅は高槻城主・永井近江守直種(ながいおうみのかみなおたね)により植えられたと伝えられ、早春には愛らしい紅花をつける古木で、樹齢300年といわれている。乾性寺一帯は竹林に囲まれており、樹林保護地区となっている。
梅の古木は、毎年樹牧師によって診断され手入れされています。

乾性寺

3.伊勢寺(いせじ)
 乾性寺から、さらに坂を登ると伊勢寺が見えてきます。宇多天皇に愛された 歌人伊勢姫ゆかりのお寺です。
伊勢姫の隠居所跡の草庵があったところを、後にあらためて寺院とし、伊勢寺と称したと言われて、金剛山象王窟(こんごうさん−しょうおうくつ)と号して曹洞宗に属し、聖観音を本尊とします。
 天正年間(1573〜92)、高山右近の兵火で焼失したと伝えられますが、元和から寛永(1624〜44)の頃、宗永が再興し、この時に天台宗から曹洞宗に転じました。
寺宝に伊勢使用の古硯・古鏡などがあります。伊勢姫は三十六歌仙の一人で、藤原継陰の娘です。

伊勢寺

伊勢廟堂(いせびょうどう)は本堂の西側にあり、碑は慶安4年(1651)、高槻城主の永井直清が建立しました。碑の文章は幕府の大学頭・儒学者林羅山 が書きました。直清は、その前年に能因法師を顕彰しており、能因が慕っていたという伊勢と寺名を結びつけた伝承をもとにして、これを顕彰したといわれています。
歌碑があり、
  難波潟 みじかき葦の ふしの間も 逢はで この世を 過してよとや と書いてあります。
百人一首でいつも聞いている歌ですが、伊勢姫が過ごした場所を訪れたことにより、 また違った歌の印象を持つことが出来ると思います。
4.日吉神社
日吉神社は、大山咋命(おお やまくひのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)を祭神とする。1573年(天正元年)、荒木村重が織田信長に摂津守に 任命された際に、滋賀県の日吉神社の分霊を祀り祭典を行なったのが起源とされている。住宅地から突然鳥居が見え、鳥居から高台にある神社までは、春になる と桜の並木道となる。きちんと整備された境内には、本殿や拝殿を配し、木々の立ち並ぶ姿も美しい。本殿は、神明造檜皮葺で彩色を施されたものである。階段 を登った高台にあるため、境内には心地よい風が吹く。

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