わがまち紹介
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平成18年 1月 わがまち紹介
"心やすらぐ自然のまち:寒天の里を訪ねる"
その2/2(樫田地区)
樫田地区とは、
標高320〜370メートルの高原地帯にあります。気候は宮城県の仙台とよく似ているそうです。
芥川上流にある田能を中心にした旧5ケ村(出灰・中畑・田能・二料・杉生)から成っています。この5ケ村は明治4年に京都府桑田郡(現在に南桑田郡)となり、明治33年町制おこなわれ、樫船神社の樫と田能の田を取って「樫田村」としました。
高槻市との合併は、1956年(昭和31年)新市町村建設促進法により、1957年に府県をまたがる越境合併です。
樫田地区は、戦前はもちろん戦後昭和30年代前半までは薪炭の生産を主体として米作や松茸の生産によって経済を支えて来たのですが、同時にこれらが共に破壊してしまった。
仕方なしに若い労働者は会社その他へサラリーマンとして就職するようになり、活気を失い人口減少していった。
昭和54年緑の村整備事業や林業構造改善事業が実践され、自然環境に恵まれたこの地域に、しょうぶ園や森林観光センター、せせらぎの里や二料山荘のある観光農業として次第に活気ある村づくりが進んできた。
田能:
芥川の上流、田能川沿いの丹波街道筋に当たります。古くは皇室領庄園、現亀岡の矢田庄または別院庄からの分郷と言われています。
江戸時代には丹波亀山藩領400石余。丹波に緑が深く、鎮守社である樫船(カシフネ)神社も矢田の鍬山神社と密接する。
田能は盆地で寒天製造に適していました。
出灰(いずりは):
芥川上流の出灰川添いに有ります。古来石灰を産し、朝廷に納めていました。
領主は田能と同じで約60石。産土神としてスサノオ神社があります。
中畑:
芥川の最上流、中畑川沿いにある元200石の村。柳谷観音の巡礼道です。産土神は大神宮社。
二料:
田能の西、安威川の上流になります。田能の名主・藤井神社(鹿爪権現)があり、田能の一部だと考えられています。90石余。
杉生:
安威川の最上流。古くから遍路道とされています。(総持寺・善峰寺・亀岡の穴太寺(アナオデラ)=西国33観音霊場)。80石余。
妙楽寺:高槻市の最北端にあるお寺で、十一面観音を本尊としています。皇族などの信仰も厚く大いに栄ましたが、明治29年(1896)に裏山が崩れ、主な建物が流失。庭には旧建物の礎石や屋根瓦が保存され、往時をしのばせています。
樫船神社:
樫船大明神をまつる田能の鎮守。貞応初年(1222〜23)田能の村人たちが、社殿を造営し神像と仏像を奉納。参道の南には、田能の山並みが広がり、のどかな気分に浸れます。
樫船神社は現在高槻市田能の鎮守であるが、亀岡開拓の祖神として丹波にとって重要な神である。
言い伝へによれば、亀岡(亀山)盆地がかつて大湖であった頃、諸国巡国中の大己貴命が樫田村の黒柄山に八百万の神々を集めて相計り、樫田村の樫船明神が樫の木で船を御作りになり、亀岡上矢田の鍬山明神が鍬を御作りになって、この樫船に乗って請田(保津峡)の峡を開かれたので、湖水は嵐山の方に流れ、肥沃な平野が現出した。大己貴命がこの平野に桑を植ゑられたことから、桑田の名が起こったとされる。この水が流れ出た峡の両岸に祀られたのが篠村の桑田神社と保津村の請田神社である。
神宮寺:
樫船神社の宮寺で、田能地区の守り仏。今も樫船神社との宗教行事が行われています。本尊の大日如来坐像は13世紀初めの作とみられ、昭和51年6月に市の有形文化財に指定。そのほか、聖観音像や大般若経600巻を所蔵しています。
関連ホームページ
1)株式会社 タニチ
2)高槻市立樫田小学校
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