わがまち紹介
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9月 わがまち紹介
""高槻の治水を考える:番田大樋と番田井路(その7/9)
水害の歴史

5.水害の歴史
明治時代以後の記録を列記する。
明治 元年(1868)4月 芥川満水 右岸決壊
明治 3年(1870)9月 淀川右岸 芥川両岸決壊
明治 5年(1872)9月 上牧三ツ樋堤防崩壊
明治 6年(1873)8月 唐崎外島囲堤防破壊
明治 9年(1876)10月 前島一貫島堤防破壊
明治15年(1882)8月 唐崎外島囲堤防破壊
明治18年(1885)6月 桧尾川末流堤防決壊
明治22年(1889)8月 淀川右岸・芥川右岸決壊
明治29年(1896)7月 淀川右岸ほか決壊
明治29年 河川法が公布
      芥川下流を淀川合流点まで淀川支流と認定した。
      現在は、城西橋の下より国土交通省の管轄となっている。
大正 6年(1917)9月 芥川左岸・芝生大樋と右岸で決壊
 気象状況
 大正6年9月26日、大阪地方では気圧762.9mmの高度を示しましたが、30日午前10時過ぎからは急激に下降し、午後11時には739.3mmの最低気圧に到達、その後は次第に上昇していきます。この気圧変化につれ、30日午後8時からは強風となり、午後11時頃には 風速24.3m/sに達し、この烈風は10月1日午後10時頃まで続きました。
●淀川の洪水・決壊状況
 この大雨で淀川水系の各河川は急激に増水し、枚方標では9月30日夕方から翌1日早朝までの1時間に 15cm〜30cmずつ水位が上昇、このため右岸の支川芥川の堤防が決壊しました。さらにその水勢が淀川右岸の堤防裏に激突充満したため、続いて本川右岸 の大塚堤防が約200mに渡って決壊し、氾濫した濁水は決壊口を広げながら右岸沿いに突進、神崎川の支川安威川、山田川合流点、味舌村(三島町)味舌の堤 防を破り、2日には岸辺村(吹田市)大字南正尺堤防を始め、吹田町(市)竹の鼻堤防、宮島村(茨木市)野々宮堤防を破ります。また神崎川筋では、西成郡新 庄村大字下新庄(吹田市)堤防、三島郡味生村大字一津屋地先(三島町)堤防が決壊しました。
被災状況
 とどまるところを知らない水勢は次々に河川堤防を破り、大冠、高槻、芥川、三ケ牧、鳥飼、味生、宮 島、富田、如是、溝咋、玉櫛、三宅、味舌などにわたる一面を湖と化しました。大阪府警察部がまとめた被害状況によると、三島郡の15カ町村、西成郡13カ町村(大塚から淀川沿線河口まで全部)と北河内の3個町村が水没、被害反別は5,871.3haにおよび、被災戸数は計15,358戸、被災人口は計65,000人にのぼっています。

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