わがまち紹介
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9月 わがまち紹介
""高槻の治水を考える:番田大樋と番田井路(その6/9)
大樋沿革

5.大樋沿革
承応2年(1653)最初の番田(芝生)大樋が竣功した。芥川左岸地域の村々の排水のため、高槻藩が芥川の川底に設けた、伏越樋(暗渠)で長さ57間(103m)内径5尺2寸(1.6m)四方の木製のものであった。
番田大樋からの排水路は、芝生村から南へ唐崎村、三島江村、柱本村にかけて、延長1里(約3.9m)の番田井路が開削され、柱本村えて淀川に排水された。
元禄14年(1701)番田井路の付け替え工事が完成した。芝生村から新たに西へ井路を開削して玉川に導くもので安威川玉川拡げと同時に施工された。これにより芝生大樋から約3里(11.7Km)に及ぶ井路を経て安威川から神崎川に排水が可能となった。
宝永元年(1704)伏越樋を増設して2艘にする計画が難航の末に実現した。
正徳3年(1713) 樋の内経を6尺3寸(約1.9m)に拡大し1艘に集約された。
宝暦年間(1751〜1763)改めて新樋を設けて2艘樋となった。
明治26年(1893)芥川堤防を断ち割って樋門の大改修が行われた。
大正15年(1926)2艘の樋を統合改築する工事が完成した。
工事の契機は大正6年(1917)の大塚切れ、芝生切れ大洪水で、神安普通水利組合(現神安土地改良区)によって大正12年(1923)に着手されていた。
この大樋は、鉄筋コンクリート製で樋門の正面は赤煉瓦の構造物であった。
昭和10年(1935) 改修工事がなされた。
平成3年(1991)芥川右岸堤防拡幅に伴い新大樋が完成した。赤煉瓦の旧大樋は撤去され銘板が残された。
平成9年3月に一連の改修工事が完成し、出口(芝生側)に大阪府と芝生によって「芝生大樋」記念碑が完成した。

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