わがまち紹介
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9月 わがまち紹介
""高槻の治水を考える:番田大樋と番田井路(その5/9)
番田大樋と番田井路

4.番田大樋と番田井路
史跡番田(芝生)大樋(おおひ)と番田井路は長い歴史の中で 下流域を含めた水利を飛躍的に増大させた。
水利のみならず慶安3年(1650)高槻は大洪水に見舞われ、淀川沿いの村々では収穫が半減するなど被害を受けた。
これを契機に、翌4年から高槻藩主永井直清により、番田の排水路(井路)掘削工事が行われた。
これは、芥川の川底(堤防)の下を横断する木管(番田大樋)によって、番田井路と、天正年間に完成した三箇牧井路を結ぶものであった。工事は承応2年(1653)に完成し、番田の悪水は柱本で淀川に流されるようになった。
しかし、淀川川床の上昇のために改修が必要になり、元禄13年(1700年)から、京都の高瀬川開削で知られる川村瑞賢の監督で再工事が行われ西に井路を開削した。この結果、番田から芝生・玉川・安威川を経て神崎川へ至る経路が完成した。
 図7 元禄年間の水路体系
これらの地域では、地面より淀川川底の方が高いため洪水にあいやすく、水路の維持が古くから行われており、水利に関する記録が多く残っている。 水流のみならず、亨保年間(1716〜1736)には、玉川・安威川・神崎川を結んだ水運を利用して、大阪の下肥を芝生へ運ぶ「芝生村屎船」が運行されている。 歴史遺産としての樋門と水路は、時代に応じた機能整備が行われて、今も幹線水路として生き続けている。
とくに柱本の葉間家文書は、戦国時代に水利をめぐる在地武士と惣中(村民)の事情を伝える貴重な資料として、昭和49年3月に市の有形文化財に指定されている。


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