わがまち紹介
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わがまち紹介
”富 田”
(やすらぎの神社仏閣・伝統の酒造り・福祉のまち)
「とんだのまち 4/4」

江戸時代の富田村の範囲
 江戸時代の富田村は、富田町、昭和台町、寿町、栄町、川添町、牧田町、西町、柳川町、北柳川町、南総持寺、北昭和台町、大畑町、宮田町を含めた広い範囲を示しています。
江戸時代の富田村は幕府領と諸藩のめまぐるしい領主の変遷で、十数回の領主変更があった。江戸時代前期の富田については、富田寺内の中核となった教行寺の南と西には御坊内町、東には南岡町、北にはヨコ町・西之町があり、その北辺には東町・中之町・西之口町の三町が東西に続き、教行寺が再興されたのと並行して計画的に造成された寺内町の名残である。東町から西之口町にかけては、典型的な短冊型宅地割をとどめ、この地区が寺内町の商業地区として賑わっていたもものと推定される。

近世初期富田村の商工業を代表したのは、紅屋を中心とする酒造業の展開であった。江戸初期に紅粉屋(紅屋)市郎右衛門一門が徳川家康に商業の特権を安堵されて酒造を開始した。
そして富田酒は急速に名声を高め、延宝8年(1680)には24軒で8270石造っている。これは富田村酒造業がもっとも盛んであったころの数字である。

 江戸時代前期に、良質の酒米と地下水を使って酒造りを行い、その名声は遠 く江戸にまで聞こえていました。最盛期の明暦年間(1655〜58)には、酒造家24 軒が8、000石余りを醸造。今も清鶴酒造と寿酒造が共に伝統の地酒を守り続けています。


江戸中期以降の富田
 中世末以来の寺内町・宿町としての富田は、文録3年(1594)の太閤検地により大きく変貌した。寺内町としての特権を失い。宿場町としての機能は、西国街道の整備とともに芥川宿へ移行したのである。
地場の酒造りは、池田・伊丹の酒造や、灘・今津の酒造に押されて富田酒の醸造は衰退の一途であった。そして富田の酒造業は、幕末で7〜8軒になり、現在は2軒の酒造家が伝統の製法・技術などを受け継いで、地酒の味を守り伝えている。


JR富田駅
 JR摂津富田駅は、明治28年(1895)富田村への停車場設置運動を地元が行い、地元が駅敷地4900坪、用地内外の道路の付替え、新駅に通じる道路(5間幅)を作り、大正13年(1924)7月摂津富田駅が開設された。
当時としての道幅は画期的な広さと思われる。
今は両サイドを不法の駐輪・看板・陳列台等がはみ出し、乳母車・車椅子等は安全に通れない。
どうして取り締まりが出来ないのか?

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