わがまち紹介
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わがまち紹介
”富 田”
(やすらぎの神社仏閣・伝統の酒造り・福祉のまち)
「とんだのまち 3/4」

五社水路
 五社水路は、安威川(あいがわ)から取水した人工の農業用の水路です。
清蓮寺の北塀に沿って坂を西に下ります。
ここは名前のとおり「跡坂(あとさか)」というところです。
富田台地の中央の一番低い「筒井池(紅屋池)」の北端にあたり、溝のような水路が池に流れ込んでいます。この水路が歴史ある五社水路です。
五社とは、富田、宮田、東五百住、西五百住、赤大路地区といわれています。
慶瑞寺境内の西の端の一段と低くなっている水路は、島上郡と島下郡とを分けている五社井路(せいろ)です。
現在では殆ど農業用水路としての機能を果たしていませんが、この水路で東は高槻市、西は茨木市の境界を作る役割を果たしています。
水路がいつ頃造られたかは不明ですが、三島地区の古墳が全てこの水路をさけて造られていることをみると4世紀前期ではないかといわれています。
この歴史ある水路を綺麗にし、保存したいものです。
右の写真は、安威川の取水堰の写真です。

富田庄
 庄の誕生、東の安満庄は、常林寺、仁和寺(皇室領)、春日神社(藤原家領)となり、富田庄は、中央官衛領として発展した。応永11年(1404)室町幕府御料所、文明19年(1487)幕府の御料所、天文8年(1539)政所直務支配の御料所となった。
富田が、町集落へ歩みだしたのは、城下町高槻より古く、戦国時代はじめの文明8年(1476)頃に創建された、一向宗の富田道場を核として形成された寺内町にさかのぼる。
その後、天文元年(1532)には、細川勝元の兵に富田道場をはじめ一向宗信徒の家々は残らず焼き払われ、富田道場が教行寺として再興されたのは、5年後の天文5年(1536)以降であった。
高槻市富田は16世紀中頃には寺内町として栄え、江戸時代に入って酒造業で栄えた町である。

文録3年(1594)には富田村の検地が実施された。それによると富田には436筆という多数の屋敷地があり、その面積は8町7反余りにもなっていた。この集落規模は同年の高槻村検地帳に登録された屋敷が、268筆、5町1反余りだったのと比べると、富田の方が圧倒的に大きく、その繁栄ぶりがわかる。

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