学習&ボランティアの実践<PART V>
〜 高山右近や永井直清が治めた高槻城周辺をめぐる 〜
(ガイドブック)
「わがまち学ぼう事業」 |
@ 藤井竹外邸跡 藤井竹外(1807〜1866)竹外とは号で、本名は啓(または啓次郎)と申します。 6代藩主直期に従って、大和から高槻に移り住みました。 小姓として歩み始め、家禄は当初120石でしたが、後、30石加増されて150石となりました。 藩校・菁莪堂に学び、20代から詩作に熱中し、七言絶句を得意とする一方、鉄砲術についても家中第一と言われている人でして、まさに文武両道の人物であったようです。 万延2年(1861)に、隠居願いを出して京都に移り住みますが、家族と弟子達のいる高槻とは終生、つながりを持ち続けていたといわれています。 竹外にとって、竹は憧れの象徴でもあったようで、「自分もあの竹の様な高潔で率直な人士になりたいのですが、まだまだそうした竹(=君子)の仲間には入れてもらえません」と、嘆いたというエピソードがあります。 碑は、「花朝 澱江を下る」の句碑です。 *花朝・・・旧暦2月15日 桃花水暖送軽船 桃花、水暖かにして、軽舟を送る 背指孤鴻欲没頭 背指す、孤鴻没せんと欲する頭 雪白比良山一角 雪は白し、比良山の一角 春風猶未到江州 春風、猶、未だ、江州に到らず |
A 永井神社 永井神社は、旧城内に所在する野見神社の摂社(せっしゃ)で、本社本殿の東に位置しています。 寛政5年(1793)8月に9代藩主永井直進が藩祖直清の霊神を祭神に勧請して創建しました。その後、嘉永元年(1848)に藩祖直清の高槻城入城200年を記念して11代藩主永井直輝が社殿を修復し、あわせて新規の門として拝所を造立したことが、棟札に記されています。門は唐門、拝所は拝殿正面中央に突き出した向拝を指すものと考えられます。 平成17年6月、社殿及び唐門等が市の有形文化財に指定されました。 石鳥居・・・直進によって京都ト部家(吉田家)に願い出て「直清霊神」の号を許可されたことや、8月24日が直清の高槻城入城の日であることから、毎年の祭礼日に月次祭も24日に行うなどが刻まれています。 唐門・・・11代藩主直輝が造立。四脚門(よつあしもん)で向唐破風造(むこうからはふう)?股(かえるまた)には、虎の竹の透かし彫り、兎毛通し(うのけどうし)には、鶴と松の透かし彫りがされている。 向拝・・・拝殿正面中央に突き出たもので、兎毛通しは丸彫りの鳳凰、殻破風の屋根の下の壁には、薄肉彫りの牡丹、蓮花、唐獅子を散らして飾っています。 拝殿・・・桁行七間、梁行二間 本殿・・・一間社流造(ながれづくり)、屋根は檜皮葺 |
B 野見神社 野見神社は、高槻城の鎮守社として城内二の丸の北側に位置し、祭神は牛頭天王。そのため高槻城の絵図では「天王」、「牛頭天王」などと記されています。 同じく境内の高槻戎神社は十日戎で有名です。毎年1月9日から11日の「えべっさん」には多くの参詣者で賑わいます。 (市民の森公園) 城跡公園周辺には、市民の森、野球場、幼児らの交通安全教育の場となっている。 交通遊園などもあり、市街地の中にある貴重な憩いの場として、四季を通じて家族連れや、お年寄り、子供達が訪れる市民の憩いの場としてあります。 |
C 高槻城跡碑 高槻城は、南北朝の入江氏の居館に始まり、永禄12年(1569)に和田惟政が城としての基礎を固め、天正元年(1573)に高山右近が町屋を城内に取り込んで堅固な城郭を築きました。 また、右近は熱心なキリシタンで、キリスト教を手厚く保護し,天主教会堂を拠点に布教をすすめていたと伝えられています。 江戸時代、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たした高槻城。 大阪夏の陣の後、元和3年(1617)、江戸幕府による直営改修工事が行われ、慶安2年(1649)には、永井直清が入城。 以降、13代、幕末まで高槻藩3万6千石の譜代大名永井家の居城となります。 明治7年(1874)に京阪間鉄道建設(現、JR京都線)のため石垣が破却され、用材として使われました。 高槻城は東西約510m、南北約600mの範囲に広がり、平面形は南北に長い凸字形をしています。 内堀が囲む本丸・二の丸を中心に、三の丸や出丸、廐廓、弁財天廓などが配置され、外堀がめぐっていました。 城下町は、城の北側と東側に発達。 そして、北の芥川口と京口、東の前島口、南の大塚口・大坂口・富田口という「高槻六口」を通じて、西国街道と淀川を結んでいました。 芥川口から京口にかけて配置された足軽長屋や寺院、城門を囲むように並ぶ武家屋敷などに、城の防御を兼ねた町割りが見て取れます。そして、その周りに「高槻十一町」と総称される町屋が広がっていました。 そこは、藩の政治、経済、文化の中心であるとともに、領内・他領の人々にとって「なりわい」と「いとなみ」の場でもあったのです。 発掘調査によって、軟弱な地盤での石垣築造を可能にした梯子胴木(はしごどうぎ)や強固な土手を築く工法など、江戸時代の高度な土目建築技術が明らかにされています。 (記念碑は昭和29年11月 高槻市教育委員会) |
D 工兵第四連隊正門跡 明治7年(1874)高槻城の石垣石は、京阪間鉄道建設の石材需要のため、工部省へ譲渡されることになり、高槻城は破却されました。 高槻城跡地には、一時、明治12年(1879)から14年(1881)まで、島上郡の郡役所がおかれましたが、明治42年(1909)陸軍第四師団工兵第四連隊の兵営が設置され、本丸跡には火薬庫、三の丸跡には練兵場がおかれました。 城跡公園の北側入口付近には、工兵第四連隊正門が残されており、当時の様子を垣間見ることができます。 |
E 高山右近銅像 昭和47年、美術彫刻家・西森方昭氏制作による銅像で、もともとは市民会館前に建っていましたが、高槻現代劇場の建設によって、公園内に移設されました。 昭和52年には、右近がなくなった地・マニラ市のディラオ広場に日比友好の記念として、同じ型の右近像が贈られ建立されました。 また、このほか、高岡城大手門前(富山県高岡市)や大坂カテドラル聖マリア大聖堂(大阪市中央区玉造)、高山右近記念公園(石川県志賀町)に銅像が建立されています。 * 高山右近(1552−1615) 摂津高山庄(現、大阪府能勢町)に高山飛弾守の長男として誕生。 天正元年(1573)高山父子は主君和田惟長を追放し、翌年、右近は21歳で高槻城主となります。 右近は、寺領の安堵や検地を行う一方、天主教会堂やセミナリオを建設。 天正13年 (1585)明石へ転封。 天正15年(1587)バテレン追放令で大名を追われた右近は、加賀前田預かりとなったのち、慶長19年(1614)徳川家康によって国外追放され、翌年マニラでなくなっています。 |
F 歴史民俗資料館 高槻市立歴史民俗資料館は、江戸時代中頃の商家笹井家住宅(紺屋町)を移築・復元したものです。 市の指定文化財に指定されており、しろあと歴史館の分館として、生活道具や農具、漁具、寒天製造用具などの民俗資料を展示しています。 入口が棟と同じ方向にある妻入り、本瓦葺き、町屋の屋根としては珍しい扠首(サス・合掌)組みなど。 当時の形式をよく残しています。 |
G 城跡公園 旧高槻城の中心部に位置する約4.4fの都市公園です(甲子園球場と同じ広さ)。昭和56年(1981)から3年計画で公園整備に着手。 塀や石垣を模した約1,000平方bの池と石積みの他、人工の小滝、小橋、あずまや、石敷きの散策路などが完成し、枝垂桜や、松、梅など約5千本の植裁も施されて、現在の城跡公園に生まれ変わりました。 *非常用貯水槽 地下に埋設されている非常用貯水槽は、災害時の飲料水や消防用の水として使用できる応急施設です。 貯水量約100立方bで1日、3万人の飲料水を確保しています。 |
H 菁莪堂跡 菁莪堂(*)は、高槻藩における藩士教育のための学校です。 9代藩主永井直進(なおのぶ)によって寛政期(1790年代)に三の丸の一角に設立されました。 8歳から18歳までの藩士の子弟が古典や漢詩・書などを学びました。 ※ 「菁莪」とは、中国最古の詩集である「詩経」中の「菁菁者莪、楽育材也・・・」(菁菁たる莪は、材を育するを楽しむなり・・・)からの言葉です。 「菁莪」とは、人材を育成したり英才の育成を楽しんだりすることを意味します。 |
I 八幡大神宮 八幡大神宮は、高槻城内にあった牛頭天王(現在の野見神社)とともに、歴代の高槻藩主の信仰が厚かった神社です。 江戸時代は八幡宮と呼ばれていました。 |
J 東大手門跡 この地は高槻城内への最も重要な出入り口であった東大手にあたります。東側、南側、北側の門(*)は、それぞれ大手門(大手御門)、南門(南御門)、北門(北御門)と呼ばれていました。このうち、最も重要なものが、東側の大手門で、この門は高槻城の表玄関ともいうべきものでした。藩主の参勤交代や他藩からの使者などは、すべてこの東側の大手門を利用しました。 * 三つの門には、それぞれ開門と閉門の時間が決められていました。 表玄関の東側の大手門は午前6時に開門し、午後10時に閉門していました。 一方、南門と北門は、午前6時に開門するのは、東側大手門と同じでしたが、閉門時間は午後6時と、東側大手門より随分早く閉門していました。 |
K 町人地 高槻城下の町人地は、本町、八幡町、川之町、魚屋町、紺屋町、横町、新本町、馬町、新川之町、土橋町、高西町から構成されています。 これらは「高槻拾壱町」と総称されます。 建物などによる景観は、面影を残すのみとなっていますが、通りや路地は、江戸時代の姿を今に伝えています。 |
L 「高槻六口」と京口 高槻の城下は、京口・前島口・大塚口・大坂口、富田口、芥川口の六つの「門」に囲まれていました。 「高槻六口」(*)と称される、これらの六つの門は、城下町と近隣村々とを区切る意味を持ちましたが、同時にこの門から続く道は、この時期、重要な交通路であった淀川や西国街道へつながり、人やモノが行き交う重要な「口」でもありました。 西国街道と高槻城下を結ぶ「口」が京口です。 *高槻六口 芥川口・・・西国街道、芥川宿へ、 京口・・・西国街道、京・伏見へ、 前島口・・・前島へ、 大塚口・・・大塚、枚方へ、 大坂口・・・三島江・大坂へ 富田口・・・富田・茨木へ |
M 寺町 高槻城下には、理安寺、光松寺,本行寺、円城寺、是三寺などの寺院がありました。 このうち、高槻城の北東部に位置する理安寺・光松寺・本行寺の一帯は、「寺町筋」や「寺之前町」などと呼ばれる寺町を形成し、今も当時の様子を伝えています。 理安寺・・・起行山総智院と号し、浄土宗に属します。 阿弥陀如来を本尊とします。 元利5年(1619)、松平家信(*)が高槻城主となり、亡くなった夫人の菩提を理安寺で弔い、その後、息子康信は、寺領を寄進するなど、松平氏の菩提寺として大いに繁栄したといいます。 また境内の墓地には、藤井竹外とも親しかった高槻藩士・市村甘泉の墓もあります。 *松平家信は、徳川家康が、今川義元のもとで人質となっていた頃から、家康に付き添っていた人物であり、徳川氏にとって、最も信頼できる譜代大名の一人でした。 元和5年(1619)、高槻城の城主となり、寛永12年(1635)、佐倉(現在の千葉県佐倉市)に移るまで、16年もの間、高槻城主を勤めました。 父の遺領を継いだ康信は、寛永17年(1640)、再び高槻城主となります。 その後、篠山に移り、さらに丹波亀山城主となります。 本行寺・・・常智山と号し、日蓮宗に属します。題目宝塔と釈迦多宝の二仏を本尊とします。慶安4年(1651)、初代高槻藩主永井直清により本堂は改修されています。 本堂にある「唱導殿」の額は、10代高槻藩主直与の子直寛の筆によるものです。 また、境内の墓地には、藤井竹外(*)の墓もあります。 * 藤井竹外の墓は、本行寺の他に、乾性寺(天神町2丁目)と京都長楽寺にもあります。乾性寺には竹外の遺体が葬られ遺髪などは長楽寺の頼山陽(竹外の師)墓の側に葬られているといわれています。 |
N 思案石 寺町の南西角にある思案石は、その昔、生活苦の領民が堀に飛び込もうかと腰掛けて、思案したといわれる石だそうです。 |
O 高山右近天主教会堂跡 高山右近につきましては、本栞Eで概略ご説明。 天正元年(1573)父・飛弾守とともに高槻城に入城後、キリスト教を家臣や領民にも進め、一時高槻は、京都・堺と並ぶ近畿でのキリスト教布教の中心のようでした。 その拠点となったのが天正2年(1574)、城内の現・野見神社付近に飛弾守が建てた 天主教会堂です。 宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、池のある美しい庭園の一角には大十字架が建てられていたといいます。 神社東方の発掘調査では、教会に隣接していたキリシタン墓地が江戸時代の厚さ2mに及ぶ盛土の下から発見されました。 棺の蓋板に墨書された二支十字や死者にそえられた木製のロザリオは、発掘資料としては日本最古。 宣教師フロイスの記録の正しさを示す貴重な資料ともなっています。 |
P しろあと歴史館 高槻市の歴史。 民俗、美術工芸などに関する資料を収集し、適正に保存するとともに、広く一般に公開して文化の向上に資するために、平成15年3月30日に開館しました。 常設展示室、企画展示室、体験学習室などがあります。 普段は無料ですが、特別企画展開催等で有料となる場合があります。 |