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立派な先生に教わった事を誇りに思う。
6期 成本 忠晴
大阪工大を卒業して47年、6期生の私には、恩師の武智先生、桝方先生のご恩は言葉には言い表せないほどお世話に成っております。
その当時は、本当にかくも偉大な両先生のご経歴を知らずまるで実父のような慈愛と、親身のご指導、人生の行く末を心配しての就職会社の紹介、人脈のご指示、ご推薦など今自分が70歳になって、自分が同じ立場に立てば かくも活動できるかと思うと、とても出来るものではなく、当時の先生の面影が目の前に浮かびあがり、涙なくして話すことも
できません。
昭和34年3月卒業の6期生、30年代の1,2,3年は非常に不況で就職難の時期でした。
34年になってやや景気回復してきたかも知れません。当時は大学3年の夏休みは、就職希望会社への夏季実習でつぶすのが普通でした。今でいう「インターンシップ」ですね。
桝方先生の紹介で「佐世保重工」にいきました。就職の内定は3年生の期末か4年生の初めだったか忘れましたが、当時は4年生の夏休み前には就職は決まっていたと思います。
私の場合、3年の夏季実習会社「佐世保」から内定の通知が来ず、桝方先生の再度の紹介で、「飯野重工」(舞鶴海軍工廠の払下げ)を受験させてもらいました。先生の御威光で「合格」の通知をもらいました。
そのあと相前後して、「佐世保重工」からも「就職内定」の通知がきました。
桝方先生からひやかされまして、「両方就職決まって悩む生徒」がおる!
4年生の夏休みは、就職内定済みのもの、いまだ就職活動中のもの、いろいろ過ごし方があり、卒業旅行をするものも多くいました。
私は4年生の夏休みは、バイト件会社実習のつもりで、またまた桝方先生
のご紹介で、布施(東大阪市)の「葵工業」にいきました。ダイハツ工業の
自動車のボディーのプレス成形する会社でした。機械加工もあり、各種歯車
も加工していました。実際に旋盤で加工する職人さんと毎日じかに話をしながら
実務を見習っていました。最後は池田のダイハツ工業の見学も出来ました。
夏休みも終わって、淡輪の先生の自宅に訪問して奥様とご子息にもお会いした
記憶があります。夏の暑い盛りで、汗だくだくで訪問すると、先生がすぐ
風呂場で汗を流すようにいわれ、まるで親の方に来たような態度であまえて、
お世話に成ったことを、昨日のことのように思い出します。
そのとき、先生が息子さんに言われた言葉に「二階のお父さんの部屋の
西窓が夕日で暑いので、夜眠るのに苦しいのでカーテンを閉めてちょうだい」
奥様もいらっしていっしょにお茶をご馳走になったと思います。
卒業式は各学部で証書の授与式だったとおもいますが、武智先生と正門前で
かおる会の同窓と写真を撮った「記念写真」がいまでも惟一つの思い出写真です。
舞鶴では桝方先生の御後輩で東大造船学部卒の専務もいました。
日立造船との吸収合併で最後まで頑張っていられたお姿を思い出します。
今、松本清張の「昭和史発掘」文春文庫13巻を読破したところです。
昭和11年2月26日、いわゆる二、二六事件のおこった昭和初期の歴史物語
というか、歴史研究の資料分析書とでもいうか、実に詳しい資料に基ずく記録分析
です。いろんな人「実名」で遺書や判決文書ですが、それを通して昭和の歴史を
振り返ることができます。
かおる会のホームページ、かおる会会報誌、など昭和30年代から平成18年の
今日までの生きた歴史資料となるかもしれません。
いろいろ、思いつくままに書きましたが正直な感想です。
平成18年11月14日
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