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戦艦大和に武智、桝方両先生はどう関られたのか?
会長 木子 房二郎
下記は、平成18年10月14日 呉市大和ミユージアム 4階会議室にて講演された内容です。
ご承知のとおり、戦艦大和については、多くの著書が出版され、昨年暮れには「男たちの大和」と題する映画も封切られました。
熾烈な戦いの果てに南の海に散華された勇士、漂流し生還された方々、大和造艦の企画から設計、造船に携わった幾多の方々の中で両先生はどのように関られたのでしょうか、卒業後、今年で51年になりますが、先生方と接した学生、助手の時代にお聞きしたお話を微かな記憶を辿りながら紐解こうと思いましたが、何せ、物忘れが始まっている今日この頃、資料もなく、不確かな記憶を搾りだすもののこれが事実だったのか確認できず、私がお話する内容が皆さんの記憶と合っているのかお尋ねしたいと言う思いからお話申しあげますので色々な逸話、ご意見を頂きたいと思います。
さて、武智先生がドイツ、ベルリンに海軍駐在武官として赴任されていたのは、海軍少佐の30歳代、単身赴任だったようです。当時、ドイツはヒットラーのナチズム全盛の真っ只中、友好国であったドイツは、英国、はじめ連合軍を攻撃した無人ロケット、V1、V2、長距離砲、Uボートに代表される技術を開発し、世界のトップレベル、日本は遅れを取り戻そうと焦っていたのは事実で、情報収集が目的であったと推察されます。
先生は、当時のドイツ有数の軍需工場を回り必要な技術情報の収集に努めておられたが、いくら友好国といっても肝心のKnow Howは明かさない。
工場を見学する際、あらかじめ煙草の包装の銀紙を硬く丸めたボールを用意し、通りすがりに焼鈍炉に投げ込み、帰りに溶け具合から熱処理温度を推定したり、作業長を連れ出して接待したり、あの手この手で貴重な情報を入手した苦労話をされていました。
戦艦大和の46サンチ主砲の製造に必要な鍛造プレスは、15,000tonの能力を必要としたが、万国軍縮会議の結果は、10,000tonしか認められなかった。そこで、製造メーカーの社長と交渉し、公称を10,000ton(実能力15,000ton)として製作、輸入し呉海軍工廠に設置、主砲を作った。
このプレスは戦後、GHQの指示で解体されたと聞いています。これらは、先生から直にうかがったものですが、詳細までは判りません。菊水の燃焼筒に関しては、戦況が悪化し、B29の本土空爆が激しくなり、邀撃戦闘機の性能が追いつかないのを挽回するためB29の高度にいち早く到達し迎え撃つため開発されたが、切羽詰った状況の中、工廠に泊り込み期日までに完成させなければならないと陣頭指揮をされ、昼夜を分かたず技術、現場総力を挙げて必死で頑張り技術的問題を克服し完成したそうで、これは、先生の生涯の作品の中でも傑作であり、これを「戦争鋳物と言う」と言っておられました。
この鋳物の難しさは、高温、高圧のジエット噴射に耐用しなければならないため、高クローム、高炭素に加え、微量元素を添加した非常に難しい鋳造技術、熱処理を要したのではないかと推考します。
材料の成分を分析出来ればどれだけ苦労されたのかの一端が判るかもしれません。そして、人間、追い込まれたどんな状況でも必死に取り組み考え、総力を挙げれば打開できるものだと教えられました。
当時は実感として理解できなかったのですが、社会に出て幾たびか厳しい状況に追い込まれた場面で、先生の「戦争鋳物の精神」を思い起こし励みとしました。
当時の海軍工廠の技術は、我が国の技術の粋を集めたもので、現場主義に徹し、例えばシャルピー衝撃試験のテストピースは、通常の小さい試験片では実体の強度を掴めないので、例えば、弾薬庫を覆う厚さ70cmの防弾鋼板の様な肉厚の素材から5cm角の試験片を各所より切り出し、試験機も巨大なものを製作、実体の真の強度を把握することに努められたとか、これら試験機もスクラップにされたそうです。
敗戦によって貴重な資料、機材を失いましたが、戦後、我が国の復興に海軍の技術は大きな貢献をしたのは事実です。
一方, 枡方楢三郎先生は、東大の造船科を出られ英国に留学された話をお聞きしましたが、武智先生と同時期にベルリン大使館に同様、海軍武官として赴任されておられたようです。
終戦後の昭和29年頃に工大に来られ前任は阪大で船舶工学、Diesel Engineの講義を担当しておられたと聞きました。
私は、船舶工学の単位を頂きましたが、大和の設計についての逸話をお伺いしたこともあります。戦中のことは、あまり話されませんでしたが、大和が連合艦隊に組み入れられた時、大和の甲板で連合艦隊幹部が山本指令長官を中にした記念写真があり、この前列の左から2人目が桝方先生ではないかと思います。
当時、大和は、ミッドウエー海戦等を戦い、兄が戦死したレイテ沖海戦から引き返し最後は沖縄へ出撃となりますが、昭和30年頃、工大新聞に枡方先生のインタービューを頼まれ、大阪淡輪の岬の突端、海を一望する小高い景勝の地にあるご自宅を訪問したことがあります。応接間の壁一面に大和の艦橋に双眼鏡を持って立つ山本司令長官と先生のお二人の大きな写真が飾ってあり、山本長官のサインがありました。大和が参戦した最初の連合艦隊最高技術顧問としてミッドウエー海戦出撃時のもので、役割は、戦闘中、被害が出た艦船の処置を技術的に判断する最高責任者として参戦されたようです。
任務は、この船は修理できるのか、曳航するのか、退船して、爆沈させるのかの判断は、つらいものがあったと述懐しておられました。
昭和11年、日本が列強米英の圧力を受け、艦船の建造比率も抑えられ、我が国の包囲網の締め付けに耐えかねて国連を脱退した時、会場から引き揚げて来たという話もお聞きしました。
先生が大和の造艦にどれほど関係されたのかはわかりません。工大新聞の記事は、何せ51年前の1955年5月のもので、私が助手時代です。この新聞記事は、工大広報室のご協力を頂き、やっと見つけましたが、古く、拡大コピーしても読めないので、PCで打ち直したものを皆さんのお手元に配布しましたが、記者が、学生だったものですから、変な表現が見られますので、敬語など少し校正し、写しました。それによると、枡方先生は、大学卒業後、直に、海軍中尉に任官され、その後、1927年海軍代表随員として国際会議出席のため英国にわたり恐らく、当時、万国軍縮会議のスタッフとして活躍されたと推察されます。新聞記事は、先生の人となり、お考え等が偲ばれますので、ご一読下さい。
先生には、確か中学二年生の男子がおられましたが、今では60代のお歳だと思います。
どなたかご存知の方はおられませんか、私は、ご子息の消息など調べて見たいと考えています。
皆さん、他にこんな逸話があると思い出されたら、HPか会報に是非ご投稿頂ければと思います。