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父の思い出
故武智馨先生のご子息(長男) 武智 弘
武智馨の長男の武智弘で御座います。大阪工業大学鋳物研究室の創立50周年、まことにおめでとう御座います。機会をお与え頂きましたので、父の思い出など少し書かせて頂きたいと存じます。
父は独身時代、広島県呉市にある広海軍工廠造機部に造機中尉、大尉として勤務をしておりました。下宿に犬を一匹飼っていて、この犬を連れては勤務後或いは日曜日などよく鉄砲打ちに行っていたようです。山の中を走り回って雉やひよどりのような鳥を撃っていたとの事でした。
私が物心ついてからの父の印象はただ怖かったという一語につきます。よく箸の上げ下ろしにも小言を言われるといいますが、挨拶や敬語の使い方、物の食べ方、宿題や予習・復習をきちんとやたかなど何度も怒られていて、父が勤務から帰宅した声がすると急にテンションが上がるのでした。激しく叱られた時など、小学校低学年のころは押入の中に放り込まれ、また小学校高学年になると夜 、「出て行け」と言って家の縁側から庭に突き落とされ雨戸をピシャリと閉められてしまいます。冬の夜などはとても寒くて縁の下や物置の中で寝ようとしても眠れたものではありません。1時間もそうっしていると家の中で妹が「もう入れてやってー、もう入れてやってー」とわんわん泣いているのが聞こえてきます。妹があまり激しく泣くものですからついに父も雨戸を開けて「入れ」という繰り返しでした。こういう恩義があるものですから私は妹に今でも頭が上がらないでいます。ある時海軍官舎の警備をしている守衛さんが私に「あなたのお父さんは工廠では何時もにこにこして人の話をよく聞かれ、おだやかで仕事は素晴らしくよく出来ると言って皆が慕っているのですよ」と言った事があります。私は何処の人の話か、そんなにまで私が憎いのか、と落ち込んでしまい子供心にもこの事がずっと頭から離れませんでした。後年もうおだやかになっていた父にある時この事を問い糾しました。少しは済まんと思っていたのか、たまたま機嫌が良かったのかわかりませんが、父はこんな話をしてくれました。
「お前は始めての子供でわしも経験がないものだからがむしゃらに育てた。わしに経験があるのは鳥打ちに連れて行く犬をしこんだ事だけだ。良い猟犬にしようと思ったら、犬がこちらの言う通りにやらない時は薪ざっぽうでキャンキャン泣き喚いても打って打って打ち据える。また言われた通りにやった時は褒美に餌をやって頭を撫でてやる。こうして犬は役にたつ猟犬に仕上がってゆくのだ。子育てもこれと同じと思ってやった。そのお陰でお前もまあ人並の人間に育ったろうが、はつはつは」と軽くいなされてしまいました。俺も犬なみか、と面白くはありませでしたが、我が子をまともに育てたいと思って一生懸命やっていた父の気持ちが分かったような気がして、長年のわだかまりが無くなった事を思い出します。
終戦で海軍が無くなり父は失業しました。育ち盛りの三人の子供を抱えて住む家もありませんでした。やっとあてがわれたバラックの市営住宅の傍に手作りの小さな炉を据えると父は軍用機の廃材のジュラルミンっを溶かして電気スタンドの胴体を鋳物で作り始めました。昨日までは海軍工廠の部長という事で沢山の人を使っていたのに、今日からは何から何まで一人でやらなければならなかったのです。私が夜中にトイレに起きると階下で何か物音が聞こえます。何だろうと思ってそっと覗くと昼間鋳込んだ製品のバリを鑢で一生懸命落としている父の姿が有りました。この電気スタンドの胴体は合津若松のマルニ工芸とい会社に送って漆の蒔絵で日本調の絵付けをした後アメリカに輸出するのだと聞きました。子供は親の背中を見て育つと言いますが、私にとってその時の光景はまさにそれでした。私が工学部に進もうと思った大きな動機にもなりました。
私が大学を卒業して九州の八幡製鉄に就職が決まった、というとポツンと「淋しくなるな」と言ったのが胸に残っています。
晩年の父は好々爺になって子供達が色紙に何か書いてくれというと、よく「恕」と「忍」という字を書きました。人が生きて行くときこの二つが一番大切なんだとよく言っておりました。。牛の背に乗って流れ行く白雲を見ながら悠々と行ったという老子に憧れ、晩年老子を愛読していた姿には、やる事をやったという満足感のような物も感じられました。色々大変でしたが父は立派な人生を生きてきたと思って居ります。
かおる会の皆様には父が本当にお世話になり、兄弟全員心からお礼申し上げます。
有り難う御座いました。
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