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かおる会 会員便り


”恩師を思う”

6期  谷口 啓治       

 時々ではあるが、国民学校から大阪工業大学までにご指導をいただいた恩師のこと を思う。
 1.京都府立綾部高校の教頭、「磯貝 勇」先生
その風貌から、ライオンとのニックネームあり。
昭和27年の入学直後、同校の西校舎(今は主体の校舎)のグランド整備に尽力され た事が忘れられない。
「一握の砂」運動と称せられ、近隣の由良川から川砂利を運んで校庭に敷く、そんな 作業をさせられた。
当時は無反省?でその仕事に従事していたが、後に実業界に於いて同じ様な事を自ら 続けた。
 ライオン先生によく言われた。「(就職が前提の)機械科だからといって、普通科 の生徒よりも英単語の記憶数が少なくて良い、と言う事はない」と。大阪市立大、京 都工繊大の受験にさいして身に染みて分かったが。
 2.同校・国語担任 志摩寿夫先生
「千曲川旅情の詩(藤村)」を暗記させられたことも。
  ・・・みどりなす はこべはもえず わかくさも しくによしな・・のくだりには、今も痺れる。
同じく、英語がご担任だった足立隆一先生の、特に副読本が好きだった。
中でも、小泉八雲(同じ小泉でも・・・)/ラフカディオハーンの「クワイダン」な ど。
ホームチーチャーにも忘れられない先生が居られる。
1年の途中で、ご自身の都合により退職されたが、短い期間に色々と教わった。
何かあると図書館に駆け込む癖も、当時に身に付いた事かも知れない。(先般、国立 国会図書館にも駆けつけた。)
 3.舞鶴市立城北中学校では、竹山道雄・「ビルマの竪琴」をホームルームの時間に読み聞かせて下さった一年次担任の梅原先生も忘れてはならないお一人だ。
 4.我が工大では、恩師武智馨先生を別格にすれば、 流体力学の林太郎先生(当時MITに留学中で増尾先生か太田了介先生が代講され た)。その難解さで、飛行機を諦めた経緯あり。
武智先生とは、「阿吽」の呼吸だったとか。昭和52年夏に日光工場在職中、数年後 輩のSさん(現・日本製箔社長)宅によばれた。何と林先生が鎮座なされているでは ないか、ビールを勧められたが、何処に飲んだか憶えていない。先生はSさんの岳父 であった。
設計の村上先生、造船工学の舛方楢三郎先生、独語の渡辺格二先生なども記憶に残りっぱなしだ。
        以上、冬寒の朝に

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