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□□|(その2 デビュー)

「私とゴルフ」
その1(出会い)


藤原 薫 氏                        第6期  藤原 薫

  私とゴルフの付合いは、かおる会のゴルフコンペの歴史そのものです。
昭和63年の第2回コンペは、中部の担当が決まり10月に開催されることになりました。
武智先生が顧問をされていた 村田機械の橋口、飯田、楠各氏はゴルフ狂 ? で特に楠氏は代表格で、早速中部の名門「愛岐カントリー」をエントリーして私も幹事を仰せつかりました。
  ところが全くゴルフの出来ない私は、ゴルフが終わるまで待っている羽目になるわけです。
  そんなアホラシイ事はないと51歳になった私は一念発起!
10月のコンペに自分も参加する事を決心しました。
そこで弟に貰った中古のクラブを持って練習を始めたわけです。
しかし、そうは簡単に行かないことは皆様ご存知の通りです。

  兎に角、日頃運動らしきものは一切していない中老の男が5月に初めて練習場なる所に出掛けて、10月1日のコンペに出られるようになるのかどうか ? 甚だ疑問でありました。
 当時、言われていて私も信じていた言葉に、「ハーフのスコアーは、ゴルフを始めた年齢までしか上手にならないぞ!」  とか
「トラック一杯のボールを打てばまともに当たるようになる」 などと言うものでした これからすると、私は幾ら頑張っても1ラウンド100程度が関の山となります。
 メンバーになれば、インストラクターが無料で手ほどきをしてくれると言う練習場の広告を見て、早速年会費を払って一からレッスンを受けることになりました。
とは言え、今の有料スクールとは違い、10〜15分程度のものでしたがこのレフティーのインストラクター市原さんとの出会いが、その後の私のゴルフ人生を決定的にしました。

  先ず、「どのクラブでも良いから振ってみろ」 と言われて、つまりは本当に初めてかどうかを調べたようでした。
当然、空振りするわけですが、次に7番アイアンの軌道と振り方を文字通り手を執って教えてもらったものです。
それから数回当たったり、空振りしたりを見た後、「このクラブでまともにボールが当たるように練習しなさい」、 「このクラブが打てなければ他のクラブは打てないから」、 と言うことでした。
兎に角本番まで5ヶ月ほどしかないので、他のクラブはバッグごと家においたままで、7番アイアンにグローブをくっつけて車に入れ、暇があれば練習場に通う毎日が始まりました。

  では本番までの様子を 「その2」 で・・・。



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