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鳴呼! ベトナム(そのU)


第6期   谷口 啓治      

鳴呼! ベトナム(そのT)の続編です

 今、随分と流行っている乗用車のタイヤホイールをAl鋳物で作ろう、と言うことに なった。
昭和47年か、或いは45〜46年かも分からないが、当時の提携先のアルコア (ALCOA)との交流の一環で、近衛連隊出身の社長・大角祐吉さんのお声掛かりだっ た。
大層恐ろしい人で、犠牲になった社員が多かったが、タイヤホイール開発の際にもコ ンセプトを「ファショナビリティー」、と答えてえらく怒られた幹部がいたと聞い た。「人の命に関わる商品を作るのにカッコ良さを売り物にするとは怪しからん。こ れならば安心して乗っていただける、と言う技術的確信を持て」と云うわけで、と ばっちりが工場に来た。得意先の自動車メーカー数社に聞いても理論的なものはな い、最初はとても丈夫なものでスタートを切り、様子を見つつ合理的な設計値に落とす、勿論、経験則の持ち合わせはあるが公開できぬ、と至極普通の話である。
これでは、開発会議の許可が下りない、なんとかせい!と、今度は小生の出番になっ た。ご存じの如く、そんな知恵の持ち合わせは全くない。仕方なく、学生時代に買う だけ買って積ん読だったワシントン大学のティモシェンコ教授のテキストから、潜水 艦艦体の強度計算に関わる一項を引っぱり出して当てはめた。
本人もよく分からないままに、社長同席の会議で報告。誰も分からないのが奏功して 無事放免、と言ったお粗末さでした。
いよいよ試作となり、第一号を砂型鋳物で作った。「学習院のご紋に似ている ナー」、と衆議一決の代物と相成ったが、折角のオリジナルも販路不明のまま試作止 まりでお蔵入りの運命を辿った。但し、この動きを聞いた広島の東洋工業(現・マツ ダ)から、本邦初のライン装着用にサバンナかRXー○だったかのホイールを発注して いただいた。我らが盟友佐々木ギーちゃんが同社の資材で辣腕を振るっていることは 仄聞していたが、仲介の商社との関係で接触出来ずだった。
 この時に難問発生。鋳造方法の選択で大いに悩んだのである。それまでの知見では、 金型を使った重力による流し込み式の所謂、金型鋳物が手っ取り早い。しかしこの方 法では量産上問題が多すぎる。当時国内でホイールをやっていたもう一社の様子を知 るべく、藤原薫さんに窺って貰った。クルマ堰(リムの形状に沿ってリング状に付け られた押し湯・・読んでいて分かる?)が付いた重力式やで、てなお答えを戴いたよ うに記憶しているが、量産上の難問を考えるとどうしてもこの方法では頑じえないの であった。誰が見付けてくれたか、英国のコーンズ社が低圧鋳造機なるものを売って いる事が分かった。「鋳造特論」・武智のノートにもない新しい代物だったが、当 たって砕けろ式に導入に踏み切った。
いつもは予算をうるさく云う連中(主に、丸の内)も、社長の威光をちらつかせて口 封じに成功した。puressure riserless castingと言い、頭文字を連ねてPRCと呼称 している。
 このPRCは、金型鋳物の多くの問題・
  @重量分の高温のメタルを人力でコントロールしながら鋳型に注ぐ労力、
  A暑熱雰囲気に作業者をさらす悪環境、
  Bクルマ堰など余分なメタルが必要で、熔解費が膨大になる、
  C余分なメタルを切り離す工数がバカにならぬ などを画期的に改善できる、と直ぐに分かった。
最盛期に、Al200トンほどの金型鋳物製品を作らせて戴いていた日野自工向けに横 展開できると思った。又、これは、全くの間違いがったが、「タイヤホイールなんて そんなに増えないよ」、と言って憚らなかったのであります。

 この様に、苦労を重ねたタイヤホイールも撤退しました。但し、PRCだけは、前出 ・ベトナムAに述べた如くプラスター鋳物の武器として使われております。

 小生は、昭和49年3月に全小山の施設担当に移動、オイルショックの中でAl合金用 押出機11台(当時)を擁する押出工場と鋳物の両方を施設面から見ておりました。 昭和51年暮れに日光工場・製板課の課長(人夫回し)に。昭和55年6月戻り新参で鋳物工場長に着任。
既定路線に乗ってダイカスト、金型鋳物を廃業させられた後プラスター鋳物とPRCに よるタイヤホイールの製造に特化、一時は「家貧しくして孔子(孝子?)出ず」なん て謂われ、押出工場の工場長を兼務した後に昭和58年夏、子会社に向け追われまし た。これらの営みには、語り残さねばならぬ事が山ほどありますが、ベトナムに端を発した今回の稿は、これにて終わりです。

 注;ベトナムAの中の・・・
   *昔の金型鋳物工場とは、約3000平方米あり、昭和19年完成の鍛造機を
      収納していた背の高い、木骨/鉄骨製。
   *現・鍛造・・・は、S56年頃中古のダブルスエージャー(上下打ち)を導入た
      今後、此処に鍛造機が集約される。
   *ダイカスト事務所があった・・/此処もS19年製だが、低いオール木骨の建物
      で唯一残った戦中派。

 終わりに当たって
何時の頃からか書き溜めた手帳が、18冊目になっている。古いものは1986年・ 昭和61年であり、その頃名古屋にあって、赤字の子会社の建て直しに腐心していた。
下らないことしか見あたらないが、苦労の跡が偲ばれる。
パソを始めて二年半。当初の目的は、自分史みたいなものを残すか、現役時代の未燃 焼部分を何とかしたいと思っていた。HPの立ち上げ、未だし。来年は、古希を迎える ので焦っているようです。ご迷惑様でしょうがお許しの程をお願いいたします。

敬具 平成16年1月30日    


本文は、谷口さんより2004年1月31日に受信されたe-mailを搭載したものです。

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