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鳴呼! ベトナム(そのT)


第6期   谷口 啓治      

 盟友たちへ

 もうすぐ、そこに、春来るらし気配の一日(平成16年1月28日)でした。
 小人閑居して不善を為す、又ぞろ下らない粗文を捻り皆さんを悩ませる「不善」を お許し下さい。

 一部の方には、ささやく如くメールなどでお話をしてある、と思いますが、一昨年 の秋頃からわが青春の集大成・古河の鋳物が大転機を迎えていて、プラスター造形鋳 型(石膏を用いるが歯医者の義歯作りも同様)による精密鋳物(主に、ターボエンジ ン用の燃料を過給する扇車・Al製羽根車・)が労賃の安価なベトナム目指して工場移 転中です。
サーズ騒ぎで若干の遅れを見たものの昨夏からホーチミン市郊外で操業開始。
うら若きベトナム娘を数多く採用して、昼夜を分かたず大量産中と聞き「熱き血潮の沸き立つのを覚えて」いる次第です。
 若い後輩が現地で指揮をとっており、国内の鋳物工場長からも「一度行ってきたら どうですか、食うものも美味いし・・・」、と勧められており、つい先日(1月15日) に会った際も「ハクビシンを食わされると怖いからナ」、「そんなことはない、安全 な所ですヨ」とやり取りして別れたばかり。
それにも関わらず、1月25日の朝日新聞に依れば、「ベトナム・感染7人に・・・うち6人が死亡」と鶏インフルエンザウイルスの惨状を報じていいる。→閑話休題
 そんな経緯から、ベトナムへ行ってみようかナーと思っていた折りに、小松邑司さ んが「行って来る」とのことだったので事情をメールしておきました。
帰国後に「ベトナム@」のように丁寧な紀行文をお寄せいただいた。お断り無く転用します。
「ベトナムA」は、先に述べたわが青春の集大成・・・の現状を古河OBに報告したも のの、これ又転用です。
 古河の鋳物は、A文中の古鋳(川崎市古河鋳造(株)・初代社長は武智師先生の知 己、菅野友信氏 先生の後に没、宝塚ベルバラ初代主役の実父)が古河電工内で産声 を上げたのが最初らしい。同社は、戦後に何らかの事情でスピンアウトされた。
小生現役中に交流有り、当時から立地上夜間操業が出来ない、とこぼしていたので今 回・小山鋳物工場跡への移転は当然の帰結か?現社長・松沢某氏は当時の同社営業部 長。→また少し脱線。
 小山の鋳物工場は、太平洋戦争末期の昭和19年に陸軍の軍需工場として飛行機のAl 部品・主に鍛造品プロペラ、車輪、脚などの生産を目論で一部スタート。工場財団と して軍が接収した農地は100万坪にのぼったともいわれ、戦後は旧地主の農地返還 が厳しく、これを必死に凌いだ痕跡有り。
一方で、廃兵気の再溶解→Al再生塊製造で再開。永年に亘り不採算に悩まされ、丸の 内(本社)から大いに疎んじられつつも、健気にも新製品の開発(電気バスを作って 走らせたり、電池ガミソリの試作品を三越へ持ち込んだり、ニクロム線を鋳ぐるんだ すき焼き鍋を作ったり)などをしていた。
小生が入社した頃は、その余波が色濃く残っていたが、ドイツから導入しようとして 頓挫したローストワックス鋳物の工場残骸があったほか、砂型鋳物に一部シェル型を 併用(→後に金型鋳物に置換)したり、亜鉛、Alのダイカストをやっていた。
その後に、前記プラスター鋳型による重力鋳造(最初はもの凄く大きい工業用の羽根 車を作っていた。刀根さんの在籍されたエバラや石播などへ納めていて、船舶用のも のが航海中にスエズ運河で羽根車破裂事故!なんてこともあった。原子炉騒ぎのシュ ラウドと言う言葉は、この頃「シュラウド付きインペラー(羽根車のこと)」といっ て使っていたが、言葉の意味が経帷子(死人に着せる着物)であるとは、原子炉騒ぎ で興味本位に辞書を引くまで知らず、「縁起でもない」と思ったものだ。)→又、ス ライス!

昭和47年頃、今は随分に流行っているクルマのタイヤホイールをやろう、と言うこと になった。(少し疲れた。続きは、次回に・・・)

 注;ベトナム@、ベトナムAを本文に張り付けること不能、
   別々の添付ファイルで送ります。
   不明な部分の脚注は、次回に入れます。

本文は、谷口さんより2004年1月29日に受信されたe-mailを校正し搭載したものです。

補足説明
菅野友信氏は、「恩師・武智馨先生の思い出」でお話されています。

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