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心の旅

         第6期 楠 隆行
はじめに
 戦後、貧しい時代をへて、物質欲を満足させるために、企業戦士とか、猛烈社員等々と もてはやされ、寝食を忘れて欲望を満たすため、限りなく欲望を赴くままに、古いものを破壊し、より便利なものへと置き換え、今日を迎えたわけですが、何かを忘れてきた。
それは真実の心ではないのか、古くて新しい美を求める時代に来ているような気がしてならない。
 私は、上記経済成長の渦の中で、会社及び社会を通じて仕事をさせて頂いたという感覚ではなく、ゲームをしてきたような感しで今尚、日々遊ぶことに専念し、生産性とは程遠い毎日を過ごしています。
何か普段と違ったことをやってみたくなり、東京から鹿児島まで歩いても変人が、変人でしかなく、よい称号を与えてもらえない。日本海から太平洋岸まで山の尾根伝いで歩くことも考えてみたが、これは危険が多すぎて家族の了承を得られそうもない。しからば座禅か四国巡礼かで迷い体力を使う後者を選択した。
(右の写真は、巡礼姿の楠さん)
(旅の装束を見たい方は写真をクリックして下さい)
 巡礼と云う行為は、イスラム教、キリスト教、仏教、その他、色々な宗教及び原始宗教も含め、いずれの宗教も心の拠所とし、その精神は人間社会を形成する上で欠くことの出来ない、法律、哲学、道徳、ではなく倫理の世界であろう。
心を作る行為としてあるのではなかろうか。我々日本人なら、四国八十八ケ寺巡りのお遍路さんを、耳にしたり映画テレビ人形浄瑠璃等で、見た聴いた、など記憶にある人が多いと思う。たまたま私は、淡路島で育った関係で、遍路姿はそう珍しいことではなかった。
今思うと淡路島経由で、四国にお参りに行く、お遍路さんであったと思われる。自分が遍路になるとか、四国のあちこちを観光や、遊び、仕事で車を走らせた道路を、歩き遍路になって、四国を回るなど夢にも思ったことが、唯の一度も無かったが、計画のため遍路に関する書籍を買い求め、読んでいるうちに、かって辺境の寺院あった筈の寺が、全て車で行けるように車道が整備されている。弘法大師が修行のため、空海と呼ばれた時代、修行で通った道を、わずかではあるが保存管理され、昔ながらの道として、今尚遍路道として修行に使われている。
自然道としては、全体の約2パーセント程度ではないかと思われるが、定かではない。 その美しい自然の魅力は何にも換えがたく素晴らしい遍路道である。  四国遍路は寺に番号をついており、順番通りに巡拝しなければならないという決まりはないが、徳島県鳴門市の第一番札所 竺和山 霊山寺を始めとし、香川県長尾町第八十八番 医王山 大窪寺まで、何番から始めてもよいが、四国を一周するのが遍路の慣わしであるそうな。
 上記遍路は、四ツの県別に、最初に徳島県は「発心の道場」、高知県を「修業の道場」、愛媛県を「菩提の道場」、最後の香川県を「涅槃の道場」、とし、修業の道場と呼ばれている。菩提 とか 涅槃 とは何か、無知なまま、歩き遍路をする機会に恵まれたからとて、ただ冒頭記したように、自分流の倫理観で理屈をつけ、修行僧になるわけでもなく、軽い気持ちで出発したが、歩きながら考え、理屈道理に「発心」して「修行」を積み重ね「菩提」で悟りを得て、「涅槃」の境地には遠く及ばぬことは承知しながら、日々歩くことに専念する。何も悟れず未完に終わり、努力の甲斐なく終わるかもしれない、不安を抱えながら{発心」したのだから、迷いがあっても、にわか遍路で「修行」に励み「菩提」はもちろん「涅槃」の境地にほど遠くても、道場を回ってどれだけ「自分を見つめ直して、新しい自分に出会うことが出来るか」試してみたい。
 修行には縁遠いが、9月6日から10月11日の36日掛けて、四国を一周し、36日の間、とを結ぶ道中、色々な出会いを与えて頂き、人々の親切に直接触れ、多くの皆様に支えられ、生かされていることを、自然と学ばせてくれる道場が「お四国」なのだ。素直に感謝できることこそ、異次元の空間、即ち、曼陀羅の世界ではなかろうかと思われてなりません。そんな曼陀羅の世界を体験させてくれる「同行二人」の旅であった。

発心の道場
 第一番 竺和山 霊山寺にて
JR高徳線坂東駅に到着、徒歩7〜8分でに着き、一礼をして山門をくぐり手水場で手を洗い、口を清め、本堂正面から入って、ご本尊釈迦如来像脇の、遍路用品販売所で遍路に必要なものを購入するにあたり、仏様に礼を欠くことは止そうと心に決めたいた。 お世話してくださった方は、ご住職の奥様で商売と教え方のお上手な方で、遍路の作法と、心掛けを教えて頂き、定かではないが、次のようなことであった。
山門にて一礼を済ませ、本堂に進み、お線香、灯明をあげ、お賽銭を入れ、遍路の名刺に相当する納め札に、住所、氏名、年齢、願い事、等記入したものを納め、写経を奉納し、別途ご祈祷を希望のかたは、祈祷霊料を添えて奉納し、各寺では、十三仏ご本尊が、それぞれ祭られているので、お経唱和の前後、それぞれ何の意味のことやらさっぱり解りませんが、ご本尊の真言を三回唱和する。本堂とは別に、各には「太子堂」を建立し、お灯明、お賽銭、納め札を入れて、般若心経をとなえた後、大師宝号三回唱えてのち、納経帖に参拝の印として、番号、山号、寺院名の朱印を頂き、代金お支払い後、山門にて一礼、次の礼所へと向かう。
一番大事なのは金剛杖で、杖は歩くための用具であると同時に、遍路行の精神的支柱である。心のこもった取り扱いをすること。実行の如何はは本人の心懸け次第。杖より先に自分を休めるな。腰を下ろしてから杖を置くな、杖を休めてから腰を下ろせ。宿に着けば、まず杖の足先を清水で洗い、きれいな布で水気を拭き取り、杖を洗うときは、心を洗う気持ちで。杖は部屋の一番上座か、床の間にに立て、まず合唱して宝号を上げ、今日一日「ご同行」お導き頂き無事、宿に着くことができたことを感謝し、「今日一日の行を解く」。大切な用具である。杉か桧で約1吋 長さ1.5mの飽掛けした材木に「梵字」と「同行二人」の文字の書かれたもの、般若心経の書かれたもの、また杖の一番上部にかぶせる房つき、錦地織帽子或いは杖全体を袋に入れて、杖を突かずに持ち歩くようにした 錦地織物で、房つき袋、等々オプションで色々工夫を凝らして、遍路に持たせ、楽に旅をさせてあげようと考えてのことであろう。私は、その大事な金剛杖も購入せず、登山用の杖を持参していたので、使用することとし、一目で遍路とわかる白衣も、暑い季節であったので、彼岸を過ぎれば涼しくなり、必要な時に何処かで購入する事としたが、最後まで買い求めることは無かった。
 遍路の必需品一式を見て、理解できず、色々教えて頂きながら以下の物を調達する。  四国遍路一人歩き同行二人の冊子本(この先の道案内地図、宿泊所案内等々のため)、菅笠、教本 四国霊場用(般若心経、十三仏真言)、輪袈裟、納経帖、納札、線香、ローソク(途中で使い切り買い足す)、で出発することとした。
 Tシャツに 輪袈裟を首に掛け、管笠をかぶり、にわか遍路の誕生で巡拝することにする。
菅笠の正面に 梵字と反対側に「同行二人」、迷故三界城と云って、人の心は三つの世界を彷徨っており、ありのままに自分を見つめることから遍路は始まる。欲の世界。色の世界。世界を彷徨っているので菅笠に以下のことを書いて知らしめ「迷故三界城」(迷うが故に、三界は城なり」、悟故十方空(悟るが故に、十方は空なり)、本来無東西(本来、東西はなく)何処有南北(何処んぞ、南北あらんや)、迷いが生じないように, 又他から誘われないようにとの配慮らしい。(私の知る、先輩の皆様、迷故三界城の世界をさまよってはなりませんぞ、心してご慈愛下さい。)  あらためて、第一番 竺和山 霊山寺 本堂に線香と灯明をあげ、納め札に住所氏名記入のうえ、納め札入れ箱に入れ、お賽銭をあげ、教本は購入したばかりで、わけも解らず、無病息災、家内安全、大難を小難に換えて頂くお願いのみでおわる。<br>    そのほか、沢山の伽藍や、観音様や、菩薩、お地蔵さん、その他、お堂が並び、素通りをするには、心淋しいものを感じる、すべてにお参りして、お賽銭を上げるには、時間と お賽銭の余裕が、必要になり抵抗を感じる、無知で勝手な解釈で、罰当たりかもしれませんが、釈迦誕生の地サルナートの近く、マトラー仏とガンダーラ仏が栄えた、クシャン朝時代、色々の仏を崇拝したのが、今日、我が国における多義にわたる学業の神仏、ぽっくり寺、安産の神仏、子授かりの神仏、等々そのあたりから来ているのではなかろうかと勝手な解釈をして、キリスト教や、イスラム教、のように一つの神により、全てのご加護があるのではなく、個々の悩み、願い事、希望を大別してお聞き届け頂ける、専門化された神仏になっている。そこで、お賽銭箱も西洋式に集約して、一箇所にして頂けると有難いと思いながら、やさしいお顔の観音様、昆沙門天、その他の仏様の前を、通り過ぎるたびに睨まれているようで恐縮しながら、目礼のみで通り過ぎ、何か裏切り行為をしたような、心残りで、淋しいような後ろつめたい気持ちになる。
 八十八のは、四国を一周するように配置され、歩き遍路の道程は約1,200kmあまりになる。その発心の道場として、第一番から約30.0km弱の地点まで十箇所のが点在し、各間、最長6kmで、これなら八十八ケ所巡拝可能であると思わせ、まずは一日目のコースで足慣らしと安心をさせてくれる。遍路道には土道もあれば、舗装された道もあり、初日はほんおわずかな土道で、後は全て舗装道路で、第一番を出て巡拝しながらの旅ゆえ、発心初日、心軽やかに快調な滑り出しと充実感に浸る。上記30kmのうち、第七、八、九ののいずれかの宿坊または、近くの旅館に着いて一日を終え、出来るだけ体を休め、この先いやと言う程、歩かなければならない。1,200kmのうち、わずか20〜25キロメートルを消化したに過ぎないと思うと、この先、夢と、希望と、期待に胸躍らせながら、気の遠くなる思いが脳裏をかすめる。

最初の難所
 四国三郎の異名ををもつ吉野川を挟んで、北に位置する乾山の山腹に第十番 得度山切幡寺があり、これまでのは里に建っていたが、ここに来て坂道を約2kmほど登ると、青葉に囲まれた山門が迎えてくれる。これまでの寺と全く違った、静かな涼気に包まれ樹木の生い茂る参道が続き、清々しい気分に浸りながら、山寺を肌で感じさせてくれる。境内巡りの途中、眼下に四国三郎を望む雄大な景観が目に入ってくる。次のの位置に目を輝かせ、巡拝後、山を下り、吉野川の潜水橋を渡り、南の山すそにある第十一番金剛山 藤井寺まで、ほぼ直線の道路9.1kmを2時間強、ひたすら歩く、全て舗装道路で日陰はなく、歩くことの難しさが解ってくる。
 第十一番 金剛山 藤井寺の参拝を終え、ここから本格的な山岳遍路道を16.8km歩くわけですが、民家5〜6軒の左右内(そうち)集落一箇所と自動販売機も何もない道中で、目的のに近い側から、約3km強ごとに庵が3箇所あるだけで、歩き遍路で逆打ちと言って時計回りとは反対に巡拝する人か、自分が追い越す人、また追い越される人がいない限り、人と出会うことのない。昼尚暗き杉木立の中、人一人通るのがやっとの道を、猪が掘り返し真新しく耕された山道を歩む。これぞまさに遍路道で禅宗道場で座禅を組むと同様、心が洗われるような清々しい気持ちで歩を進め、疲れも忘れさせてくれる。無心で遍路行の出来る別天地、歩き遍路を志してよかったと思う一時である。しかし一人で歩くと、夕暮れか日没になれば、何とも淋しい気味悪い遍路道に変身することもあると思う。そもそも遍路の白装束は、その昔、行き倒れになっても其の侭、あの世に行ける死に装束であったそうな。道中お地蔵様や、小さな祠がやたらと点在し、手を合わせて通り過ぎるのだが、その祠が 行き倒れになられたお墓で、その付近に埋葬されていると言う。これが修行である事は承知していても、墓地の中を通過していることには変わり無く無気味である。
 1時間当たり約1.2km進むのがやっとの、上り坂をひたすら歩き、長戸庵、柳水庵を通過し、いっそう急な上り下り坂道を、うつむき加減に、苦しさを我慢しながら歩を進め、石段に差し掛る。ふと上を仰ぎ見ると、「お大師様」一辺倒の四国の中でも、一番大きい「お大師様」の銅像が、来る人を迎えてくださっていると言われていますが、この聖地に足を踏み入れる者は、邪心無き者か否かを問うて、睨みを利かせて、見つめているように思われる。ギョッとして立ちすくむ感じになる。一本杉庵の大師像に迎えられる。 銅像の大きさに違いがあるものの、姿形ちは同じでも、設置姿勢が他の大師像と違い、3〜5度前傾で設置されているので、目線が石段の最下段の先を見ており、巡礼者が下から上を仰ぎ見る角度と、目線が合うように据えられている。このように人の心をもてあそぶことが出来る、大師像作者の、遊び心と、苦心のほどがしのばれる。
(右の写真は、焼山寺から剣山を望む。霞で見えていないようです)
 巨大大師像を後にして、当最大の難所中の難所で遍路転がしの異名をとる急勾配の岩場の道を上り詰め、やっと海抜八〇〇メートルの第十二番礼所 護摩山 焼山寺 山門にたどり着く、ここでも弘法大師の巨大な銅像が迎えてくれ、仁王門をくぐると、樹齢約四〇〇年の杉木立の参道に圧倒されながら、到着の喜びひとしおの満足感に浸り、本堂へと進む、前のから登りの標高差累計1100mになり、初回の遍路は歩き始めて2〜3日目で要領悪く、疲労もだいぶ蓄積しているが、はやる気持ちを抑え自分のペースを守っている積りで、これから先の巡拝プランを楽しむ。
 大自然に抱かれた、焼山寺の朝の清々しい冷気っを肌で感じ、霊験新たかな気分に浸りながら、眼下は霞がかかり、遙か彼方より夜明けを知らせる光が、青と、淡い青、茜、色とを層状に混色し、薄墨色の山々をぼんやりと映し出してくる。大宇宙の営みに向かい、両手を合わせたくなる神秘な世界と、感動に感謝せずにはいられない。視線を西に回せば、四国山脈が眼前に広がり、墨絵を眺めているような少し霞んだ彼方に、西日本最高峰の剣山が眺望でき、壮大なパノラマである。第十二番 護摩山 焼山寺から、次の十三番まで28kmのうち、約10km登り下りを繰り返し、第十三番 大栗山 大日寺まで、勝浦川沿いの国道に合流し、川と舗装道路の民家のない、谷あいの単純な一本道で、通過時間によって路面温度が上がり、この辺りで足の裏が、はれぼったく感じてくるのを我慢しながら、十七番 瑠璃寺 井戸寺まで、約8kmの間に5有り、平坦な道路の巡拝で、苦しさを和らげてくれる。
(右の写真は、焼山寺から東南を望む、ハワイの方向を見て写す) (大自然のパロラマを楽しんで、次の章にお進み下さい)



フランチャイズの不思議
 ある説によれば、熊野信仰の流れを汲む修行僧或いは四国遍路は、高野山から淡路島経由鳴門市撫養港に上陸するルート(現一番)と和歌山港から徳島港に上陸するルートで、徳島に到着する巡拝者は、第十七番 瑠璃山 井戸寺が始まりの、第一番でなければならないとの説と、「お大師」様の生誕の地、讃岐国多度郡弘田郷屏風ケ浦、現在の第七十五番 五岳山 善通寺が、第一番でなければならない。何のための番号かにより、どの説も最もなような気がする。大師没後に八十八のチェーンが出来たことは間違いなき事実で、上記寺の中に大師没後に建立された寺院もあり、上記の番号に疑問が残る。しかし、車もなく、通信手段として歩く以外、方法のない、その昔、このエネルギーは並大抵のことではなかったと思われる。何年くらい前から、修験者、又は、一般巡礼者が行き交うようになったか。正確なことは、今もって分かっていないらしい。
 第八十八番医王山大窪寺の手前に、遍路会館が設置され、だいぶ資料が集められているが、不透明な部分が多いそうです。後日詳細を紹介する機会があれば、又下手な文節で、 お知らせしたいと思います。
 第十七番から第二十番 霊鷲山 鶴林寺の麓まで、徳島市内を横断通過、二巡拝しながら、緩やかな登り下りを繰り返し、前から約40km、第一番から歩き始めて約110km地点に到達、この辺りまで歩を進めてくると、それぞれ疲れも相当蓄積され、足の裏に豆ができている人、足の裏側が鬱血して腫れ上がり、一歩一歩が足に響き、引きずるようにして巡拝している人が大半で、無傷の人は類まれなお方だと思われる。このあと阿波発心の道場最後の険しい遍路道も、ミカン畑のあいだをぬって、標高570mの頂上に建つ第二十番 霊鷲山 鶴林寺を巡拝、当寺は大師修行中つがいの白い鶴に守られた地蔵菩薩を見つけ、自ら刻んだ、地蔵菩薩ご本尊の体内に鶴を安置、国の重要文化財に指定され(ここから鶴林寺の名称がついたそうな)、境内に鶴の銅像が本尊を、お守りしており、山門の仁王像の足元にも白い鶴の彫刻が置かれ、厳しい仁王さんと、やさしい鶴は何とも違和感がある。この仁王像は運慶作と伝えられている名作で必見の要あり。第二十一番 舎心山 太龍寺は広大な境内に樹齢400〜800年の杉の古木が林立し、西の高野山と呼ばれるにふさわしい雰囲気と、各お堂、伽藍を備え、なかでも太子堂の繊細な彫刻はすばらしい。大師がここで100日間、修行練行しても悟りがひらけず、この寺の立つ山頂、舎心ケ嶽から谷に身を投げて、悟りを得ようとしたと伝えられている寺で、相当な秘境にあることが、お解り頂けると思う。

遍路道
 道、県道、市町村道を兼ねた道路と、昔ながらの保存された遍路道に大別され、舗装された市町村道を歩けば商店もあり、国道でもバイパスになれば商店の無い道路もあり、遍路専用道路は店らしきものが見当たらない、今日の生活様式から、車を使わない家はなく、 遍路道として残っているところは生活道路ではなく、民家の裏手ばかりを選って、歩いているようなもの。山の多い四国の土地柄、遍路道は最短コースであるが、徒歩専用道路のため、登り下りが多く、雨の降る日は川となり、ぬかるんだ道が大半である。舗装道路は長時間歩き続けると、疲れやすく、足への負担が荷物の量により非常に大きい。四国の道とは、国民休暇ハイキング用の道で、遍路道と四国の道の共有多く、四国の道と国道の共有も相当あり、ドライブ用にも利用するようになっている。国道を遍路道として利用する距離も約8割以上あると思われる。土道で四国の道と共有するところもあり、コースに何通りかあるなかで、選択する場合、最短距離か否か、国道か自然道か、といった選択をする、自然道のすばらしいさと、足にやさしい感触は疲れれば疲れるほど歩きたくなるけれども、登り下りの激しさも勘案しなければならない。
 第二十一番から山を下り、あと二十二番 白水山 平等寺まで13km、第二十三番 医王山 薬王寺まで22.5km、徳島県最後のまで登り下りのボディーブローを受けたような感じと、、痛い重い足取で、この先の事を考えると、なんとしても日和佐までたどり着いておきたい思いで、国道を狭い暗いトンネルを幾つかある中、車に気を付け、運転者に早く、人の気配を感じてもらえるようにして、やっとの思いで眼前がなんとなく、明るく開けてくる所までたどり着き、そこは太平洋岸の海亀の産卵で知られる、日和佐海岸近くで、礒の香りが懐かしく鼻腔を刺激しつつ、第二十三番 医王山 薬師寺に参拝、本堂前から展望すると、眼下に日和佐海岸と湾内の島など、一望できる観光の名所でもある。  オヤクシサンの名前で親しまれ、「弘法大師」が42歳の厄除け祈願のため刻んだ、薬師如来像を本尊として「本堂」にお祭りしている。今なお厄除け祈願の善男善女の参詣多く、年間100万人が参詣に訪れ、石段の下に、経文が一字 ずつ書いた小石が埋め込まれており、一段毎に一円玉を厄年の数だけお供えし、厄除けとして本堂に参拝する。
 遍路も第二十三番 医王山 薬王寺 参拝で発心の道場を終了とする。何を修行し、何を得たのか、高知県、修行の道場にはいるには、第二十四番 室戸山 最御崎寺(室戸岬)まで86kmあり徳島県、発心の道場はそのうち40kmあり、その間で反省と述懐をしながら、次道場へ向かわせる。計画の段階では二日で通過予定が、これまでの経験から、非常に困難であることが分かった。このあと次のまで、ひたすら修行をすることとする。自分を見つめ直し、多少なりとも新しい自分に出会えたか、「新しい自分を、多少也とも発見することが出来た」、「日々清々しい気分に浸れたか」。
 二日目頃から、「虫も殺さぬ仏心」でここまでたどり着けた。などと自問自答しながら、 近くて遠い旅、古くて新しい旅、それが遍路ではないか、なんて理屈をつけながら、思い出すことは、足の痛い思い出と、何でこんなシンドイ事をしなければならないのか、苦しい思い出が優先して出てくる。自分で志願したのだから得るものがあるまで、ひたすら歩くしか方法は無い。心身に鼓舞するのである。
 旅は道連れとはこのことかと思われる。宿も経路もそれぞれであるのに、何回かこれまでに出会う人がある。その折、色々な遍路の情報交換や、お互い足の痛いのを話し合う。 ある日、三回目の巡拝者と出会う。苦しくとも時間がたてば、又四国に来たくなりますよと云われた。こんな苦しい遍路なんて二度とするものか、心に誓い、もっぱら聞き役でしかなかった。心理として時がたてば、苦しいことは、楽しい思い出に変わる。世の常で あること必定。四国病と言われる病があると聞くが、このことであろう推測はつく。