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吉冨 直實さんを偲ぶ

第2期  木子房二郎      

 突然のご逝去の報に接し、信じられない思いであった。
昨年の秋、有馬温泉でのかおる会で会ったばかりだったから、前立腺を患っているようだったので、プロゴルファーの杉原も頑張っているから頑張れと話していたのに、あまりにも早過ぎる。ご家族皆様のご心痛はお慰めするすべもないが、残念の極みである。
 顧みると、吉冨さんと、はじめてお会いしたのは1955年、私が卒業後、研究室の助手になった時だった。
当時、武智先生からゼミの学生は、機械科在学生の中でも成績はトップの人材を選べとのことで、吉冨さん、畑さんは、名門高出身の優秀な学生で成績抜群、選ばれ、卒業研究は、大阪市委嘱の鋳型材料の研究、確か、ピッチをバインダーにした鋳物砂、毎日、毎日、純白の実験着をピッチで真っ黒にして適正配合量を求め、配合と焼成、通気性、強度テスト等、根気よく続け、成果は卒論として仕上げ、大阪市に提出された。
当時、大阪市内には、500の鋳物工場がひしめきあい活況を呈していたので、この鋳型材料も供試され成果が挙げられたものと思う。
日々の実験は地味であったが、休日も返上し、こつこつと丹念にたゆまず努力し、几帳面に処理していく中、意見の衝突もお互いのユーモアで絶妙にかわし、目標貫徹に向け意気はピッタリで感服したものだった。実験室の白衣の姿が今も目に浮かぶ。
 夏休みに、吉冨さんの3人の薬大生の Girl friendと畑さんと琵琶湖の湖北、白髭の湖岸にキャンプに出かけた。夕食にと懸命に潜り、しじみ取り、当時は、男女の中は厳しい時代、バンガローは別棟、男3人寂しく雑魚寝、ところが翌朝まで人事不省の熟睡、さすがは、薬大生、一服盛られたなー  先生に知られたらえらいことになっただろう。
須磨の海岸でヨット遊びなど、青春そのものだった。楽しい思い出は尽きず走馬灯のように胸に去来する。
 卒業後、それぞれ就職し、それぞれの道を歩んだが、かおる会とか、武智先生を囲んでの食事、談論風発も懐かしい思い出である。吉冨さんは、クボタ入社後、人一倍の努力と研鑚に励み成果をあげ、晩年は、後継者の育成に注力され、その後、学校の数学の先生をされるなど、驚くほど冴えた頭脳の持ち主だったと思う。
 そして、かおる会の維持、発展に創成期から尽力され、礎を築いて下さったことは忘れる事は出来ない。吉冨さんとは、大阪と横浜に離れたが、かおる会で会うのが楽しみだった。人それぞれ天命ありと謂われるが、同年の友が逝くのは本当に寂しい。人はその天命の中で生かされ、娑婆での夢を追いかけ続けるものなのだろうか、吉冨さんの奥様はじめご家族皆様のご心痛は、光陰以外にお慰め出来ないかもしれませんが、どうぞ、ご自愛専一に頑張って頂きたいと祈念するばかりです。
 私の部屋に震災前のマリンタワーを背景にした神戸港の風景画がある。この絵は、吉冨さん、畑さんが、私の役員就任の際に贈って下さったものだ。絵の中の神戸の空は青く澄みわたっている。この空を見上げる度に、懐かしく子供の頃を想起する。今後も、この青い空に吉冨さんの面影を見続けて行くことだろう。

     ご冥福を祈り・・・ 合掌




平成16年1月15日にe-mail で頂いた文面をそのまま搭載させて頂きました。