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武智馨先生 ご経歴
     
西暦 元 号 年齢 ご 経 歴
1899年 明治32年   愛媛県松山市 誕生
松山中学、熊本第5高等学校
1923年〜 大正13年〜 24才〜 京都大学機械科卒業
広海軍工廠へ、 海軍造機少将、石川登喜治/造機部長。
3年鋳物を勉強し「冶金科」へ志す予定だった。
1927年石川先生は(東京)海軍技術研研究所へ。
転任武智先生は広工廠に残る。
大学2年生の時川崎造船へ実習。
松方元老の子息 の社長に「大学出の技術者など役に立たない」と言われ海軍に入る。
参考:当時の冶金学の先達
 東京大学 冶金科 俵 国一
 東北大学理学部物理科 本多光太郎
 京都大学理学部化学科 近重真澄
1927年〜 昭和3年〜 28才〜 福間忠晋 造機部長 海軍造機大尉より、「薄肉鋳鋼鋳物」の製造指示される。
  肉厚1インチ−−>5ミリ−−>1.5ミリ
1933年〜 昭和8年〜10年 35才〜 横須賀海軍工廠へ。鋳物砂の全国調査を実施
1935年〜 昭和10年〜12年 37才〜 ドイツ留学(外交官でなく技術の監督官)
1936年 昭和11年 38才 ドイツ 国際鋳物会議へ出席(当時日本は会員ではない)
1937年〜 昭和12年〜15年 39才〜 佐世保海軍工廠へ
1040年〜 昭和15年〜19年 41才〜 広海軍工廠 鋳物実験部設立 所長
軍艦用プロペラ:巡洋艦以上は広海軍工・廠駆逐艦以下は舞鶴海軍工廠。
戦艦大和他の戦艦のプロペラを鋳造する。
1944年〜 昭和19年〜 45才〜 東京 軍儒省鋳造技術指導班 班長勤務
西 成基 陸軍大尉(後年名大教授)と2人で東京、名古屋、阪神の
第1級鋳物工場の技術指導する。
広海軍工廠素材部長兼鋳物実験部長の任にあたる。
1945年 昭和20年
敗戦
46才 無常感
寂寥感におそわる。

進駐軍司令部:戦犯による追放令にかかる。
会社関係で重役職以外は許可される。しかし辞退する。
東北大学より「鋳物の先生」の要請あるも追放令にて不可。
日本国中(東北〜九州)の鋳物工場の指導に廻る。
1951年〜 昭和26年〜27年 52才〜 追放解除(朝鮮動乱等にて日本共産党員の要職追放:逆追放)
1952年 昭和27年7月 53才 京都大学よりのすすめで「大阪工業大学」へ就任
  昭和27年8月、東北大学より先約につき、苦情の申し出あるも
  田上理事長、野田学長の慰留強くそのまま大阪工大に就任する。
1953年〜 昭和28年〜29年 54才 大阪市長、兵庫県知事より大阪市周辺と淡路島の鋳物砂の調査を委嘱される。
1959年 昭和34年 61才
(還暦)
かおる会創設
1969年 昭和44年 71才
(古希)
かおる会会報の創刊
1970年〜 昭和45年3月31日 72才 大阪工業大学 停年退職ご経歴
大阪工大客員教授待遇で教鞭を続けられる
興国鋳鋼所所長 村橋金造僧正:「令70にして心の欲するところに従って矩をたがえず」
武智流:
「心の欲するままにやらせて頂きます。但し矩を越えない範囲内で」
「遊び」:考えたことなし。「魚釣り」を好む。
「住は雨露を凌げば足り、衣食は寒、飢えを凌げば足る。務めて人工を遠ざけて
天地自然のまにまに簡素に生きること」の心境になられる。

1980年 昭和55年3月31日 81才 大阪工業大学在任28年で名誉教授退職

世に継承法として「一子相伝」「家伝秘法」とあるが、
47年の鋳物技術を後進に伝えることに徹する。
1987年 昭和62年12月3日
午後3時15分
88才 ご逝去