かおる会
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古神道のお話し(武智馨先生)
この古神道のお話は、平成14年6月1日 武智馨先生の15年祭に、
武智先生のご長男(武智弘様)より、かおる会に贈呈された馨先生の生の声の
テープをテープ起こしをしたものです。
高槻市富田町の三輪神社の好田安彦宮司に、神様の名前 や漢字等を確認して
いただき、完成いたしました。
先生の元気なお声と、先生の独特のお話ぶりを、思い出しながら、最後まで
楽しみながら読み下さい。
左に載せました写真は、畑さんのアルバムから、研究室の先生の写真です。
お宮さんの写真は、三輪神社の写真です。
日頃、神様について平素思うておるところをお話してみようと思う。
勿論、私が本居宣長とか平田篤胤とかいう神道を専門に勉強した、
そういう学者ではないのであり、全く一介の素人である。
ただ、今七十八歳になるが、古神道の雰囲気の中に生まれて育ち、その後七十年、
色々な事を見聞し、又体験もし色々な事をまた感じ、また色々教えて貰う事も
あったが、あれこれと色々なことの、この七十年の経験によって、また色々の考える
ことによって、自然と心の中にわいてきたような所感、その所感によるところの、
信念というようなものか、あるいはその知恵というようなもので、あろうかと
思うのであって、そのことはどうかひとつ、まずあらかじめご了承をしておいて
もらいたい。
第1に古神道と言うのは、これは金光教とか天理教とか、色々な宗教的な神道が有るが、
、それらと区別をする為に、古神道と言うのであって、これはようするにお宮の神道
である、神社神道である。これは宗教ではないのである。
この古神道は、日本民族が遠い遠い神代の時代から、おそらく何億、何十億という無数の大勢の我々のご祖先が 何千年もの長い間、色々な事を考え、思い体験をされて、その体験による思索をまた得られたで有ろうが、そういう事を次から次へと、引き継ぎ引き継ぎ、段々段々大勢、本当に無数の人が考え、思いそれを伝え伝え、引き継ぎ引き継ぎしながら、自然と出来てきた一つの思想と言うか、信念と言うものか、まあそういうようなものであろうと、思うのである。
宗教では決してないのである。
終戦によってマッカーサーが日本を占領して、そうして日本に耶蘇教を広めようと思ったが、その第一番どうしても邪魔になってしようが無いのが日本のお宮である。
この神社神道である。
その為にこれを潰す為に 神社お宮を宗教に格下げしてしまって、そしてこの耶蘇教伝道の邪魔にならんようなほうに、押し込んでしまおうとした。
その為に、今このお宮も、やはり宗教になってしまっておるんだけれども、なんぼマッカーサーがそういうことをしたところで、お宮の本質というものは、絶対に変わっては、おらんのである。
神道というこの古神道は、宗教ではないのである。
一般宗教には、みな教祖とか、教主とかいう、この宗教を始めた人間がおり、耶蘇教で言えばキリスト、仏教で言えばお釈迦さんとか、あるいはまたその末派になっても弘法大師だとか、あるいは日蓮上人だとか、まず必ずそういうものがあるが、神社神道にはそんなものはない。
又、宗教には、経文だとかお経とか、バイブルだとか、何やかやというふうな、ものがあるけれど、お宮にはそういうものはない。
又、宗教宣伝だとか信者を増す為に色々なカラクリを使うとか、いわゆる宗教活動とかいうふうなような事は、一切お宮はやらない。
古神道というものは絶対に宗教というものとは違うのである。
もういっぺん繰り返して言えば、古神道とは神代から誰と言う事なしに、いつからか、いっこう始めもなにもわからんけれども、ともかくも自然に我々大和民族の先祖がずうっと自然にわきあがって来たように自然にできあがって来た、信念のようものであると思う。
さて、古神道というもののお話は一応このくらいにしておいて、今から本筋の古神道の神様について、お話を進めていこう。
この古神道の神様の一番の大本は、アメノミナカヌシノカミ(天御中主神)と申し上げるのである。
この神さまは、大宇宙を創造し、又これをずっと運営をしておられる神さまであって、無限の力と無限の大慈悲を持っておられる。
いわば大自然と言うか、そのお力の事を言えば、時には大いなる力などと言うこともある。
この神さまの始まりはわからない。
何百億、何千億年の昔から作られて、また今からの未来 何百億 何千億 何兆億年にもずっと続いて運営をしていかれるのであろうし、又大きさの事から言うても、今人間の目に映るもので、一番遠い星は、何億光年もの遠方に有ると言うが、まだまだ、何億やない、何百億、何千億、何万億光年のはるかなるものがあるか、人間には考えることも思うことも出来ない程大きなこの宇宙である。
時間からいうても、大きさからいうても、我々の想像や思考に絶するものであり、これを全て作られて、司っておられる神様 これが天御中主神様と申すのである。
古神道では、この想像もつかない、考える事も出来ない、大きな天御中主神 余りに大きすぎて、どうにも我々の考えに及ばないからして、我々の比較的身近かにあって、我々の肌に感じ 目に感じ、我々の五感に何がしかの感じのある、この身近かのこの大自然、天御中主神様のうちの我々の比較的近い所の範囲の、そのところを古神道では天照大神と申し上げるのである。
天御中主神の御分身というわけでもないのである。
ただ、天御中主神のあまりに膨大で、我々には感ずることも出来ない、我々に感ずることの出来る範囲にある この天御中主神をアマテラスオオミカミ(天照大神)と申し上げるというのがよいのであろうか。
この天照大神の象徴としてあるのは、お日様である太陽である。
いうならば大宇宙の、大宇宙が天御中主神であり、大宇宙の中の太陽系 我々のこのまわりにある太陽系 この部分が天照大神と申し上げると言うても、まあたとえて言えばそういうことになると思う。
従って、天照大神が我々の身近かにある一番ご本家の、一番大本の神様である。
耶蘇教でいう神とか マホメット教のアラーの神だとかいうのは,天御中主神を指しておるか、天照大神のような神様を指しておるか知らんけれども、いずれにしてもこういうような 神様をただ一人にして絞って、そして一神教というのをやっておるのである。
ともかくもこの神様は ともかくも大宇宙を創造し、そしてこれを 運営をせられ、無限の力、無限の大慈悲をたれておられることは間違いはないのである。
ともかくも古神道において、一番大本の神様としておまつりをするのは、天照大神であって、伊勢の伊勢神宮におまつりをせられておる。
皇室のご先祖様というように言われておるが、しかしそれはもちろん間違いのないことであるが、なお畏れ多いことではあるけれどもが、又言わしていただければ、又同じく我々のご先祖でもあり、いわば人間のみならず全生物のご先祖様ということもできるのである。
これが天照大神様である。
この他に古神道でいう この多神教であって神様はずいぶんたくさん非常に大勢の神様があって、たとえば氏神様とか産土の神様、なおその他にいろいろたとえば農業の神様、薬の神様、商業の神様、あるいは漁業の神様とかあるいは大工の神様、鋳物の神様とか、それぞれの専門のような事柄についても、ずっとそれぞれの神様が大勢ある。
氏神様と申すのは 氏の一番の神様であってこれはもう血統的におじいさんのその又おじいさんのおばあさんの又そのおじいさんのおばあさんという、この氏のもとの神様であり、産土の神様とは開拓の神様であって、不毛の土地を拓いてそこに部落を作り都を作り、その子孫が繁栄をするように、いつまでも栄えて幸せにいくようにいうことを念じてそして見守っていただくこの神様である。
他の色々の専門の神様、あるいはこれはもう、武芸の神様とかいろんな神様があるが、それぞれのこのご専門によって、それぞれの専門に従事して一生懸命に、子孫のため、社会のため、国のために働く者には、これを見守って下さってお助け下さり、大いにその仕事の上達を励ましていただける神様である。
そこで、古神道の一般の神様の大きな説明はこれくらいにしておいて その次に天照大神のことについて今から説明をしていこう。
天照大神の象徴は先にも言ったとおりお日様である。
私はもうそのものずばりお日様そのものを天照大神として毎日拝んでおるのであるが、毎日東から出て夕方に西に地平線の下にお入りになるが、それまでの間は一刻一秒の休みもなく、この地上の生きとし生ける生物に光、熱とか磁気もあるだろうし、又我々が気のつかない色々の又このお陰を蒙らしていただいておるのであろうと思うが、ともかくも虫けらに至るまでこのお陰によって生きておるのである。
お日様がなくなれば生きとし生けるものなにひとつ生きておることが出来ないのである。
お月様でも これがお日様のように肌には感じないけれどもやはりこれも大きなお力を我々がいただかして頂いておるのであろうと思う。
お月様もやはり天照大神のうちではあるけれどもが、これをやはりお月様そのものとしては、ツキヨミノミコト(月読命)というお名前を申し上げておる。
天御中主神の この我々が肌身に感ずる神様も、天照大神というごとく 天照大神のなかの又お月様は月読命と申し上げておる。
このお月様もいっこう我々には余り感じがピンと来ないし、ただ一つの石の固まりの物質であると言うけれども決してそうではない。
昔から人が生まれるのは、満ち潮に生まれ、人が死ぬるのは引き潮に死ぬると言う。
やはりこのお月様のお力が我々の生死、生活に大きなお力を頂いておるのであろうと思う。
ともかくも、天照大神のおかげなくしては、何ものも生きておることは出来ないのである。
ただ、生きるだけではない、生まれる時からがそうである。
たとえば、子供が産まれることを考えてみようか。
母親が生むと言うけれど、母親はただお腹をそこに貸しておるだけである。
母親の腹の中で成長し、生まれるけれども、この子供が発育する場合、頭を作り、手を作り、足を作り、五体をそろえて丁度釣り合いの取れるように、これを段々と成長させて行く。
その中には、種々雑多の本当に無数の色々の細かいものがある。
たとえば、目を一つ考えて見ても、目玉というものがあり目玉の中にも角膜があり、網膜があり、その又中に無数の神経とか、血管が無数に入り交じり、動脈があり静脈があり、リンパ線のようなものもあるのか、とにかく、顕微鏡的なものが、まことに無数に錯綜として入っておる。
どれが一本狂っておっても、まともなものではないのである。
目だけではない、耳でも心臓でも頭の脳の中でも腹の中でも、もう血管から神経からという、まあそれからこの皮膚でも皮でも何でもかんでもが、むやみに発達したらこぶになる、癌みたいになってしまう。
それがすっかり適当なバランスを取って、ずうっとまんべんなく申し分なく、一寸一分の間違いもなく、欠陥もなく発育して人間に出来上がるのである。
みんな顕微鏡的な、億兆、何十兆という細胞それの一つ一つの細部であり、とても人間が出来ない、母親が子供を産んだと言ったところで、母親は指一本ふれることは出来ない 出来たら最後、とんでもないものになってしまう。
これはみな天照大神のやって下さるお仕事なのである。
そのようにして作って頂いた、その身体というのはこれは絶対完全無欠なのである。
人間の作った機械と言うのは、作り放しであり、まあ不完全きわまるものであって、検査が済んだらすぐ故障する。
うまくいっても2〜3年もすれば、摩耗してしまう、ガタがくるというようなものであが、そんなものでは天照大神に作って頂いた人間の身体と言うものは、これはもう絶対完全なものであり、摩耗、摩滅することもない。
死ぬるまで故障はない、摩耗の無い、まことに完全無欠なものなのである。
又、年を取ると私らのように、頭がはげてしまうこともあるかもしれなけれども、これはまあ仕方ない。
まあ健康と頭がはげても生死に別状は無いのであが、これはまあどうも仕方がない。
ま、人間のみならず草も木も、野原の鳥だろうが、虫けらだろうが、みんないちいちこのようにして、この天照大神によって作られておるのである。
木でも時間が来れば 時が来れば、暦を見るわけでもないけれども、つぼみを作り花を咲かし、花が咲けば蜂が来て、その蜂が密を吸う。
花粉をもって行って、そして実が成る。
実がなるというとそれを鳥が食べに来て、その実を食って行く。
食った中で、木の本当の種子になるものだけ、種になるものは、鳥の砂袋の中に入っても、あの固い実をこなすように、砂袋と言うものがあって、すりつぶして消化していくようになるけれど、この木の種子になる、種だけは壊れないで、糞の中に出てくる。
・・・と鳥が飛んで行って、糞とその種とを落とすからほうぼうの遠方に行って、又その木が芽をふいて、生えてくる、まことにこの自然のカラクリと言うか、なにからなにまで天照大神のご敬神には、一分のすきもないのである。
うちの庭の山茶花は、冬の寒さが早く来る時には、花が少ししか咲かない、もうつぼみをあまりたくさんつけておらん。
暖冬で、暖かさが長く続く年にはたくさんつぼみを作っておって、いつまでも花が咲く。
この山茶花は、ちゃんと今年の冬は暖冬か、あるいは早さが寒いのかということをちゃんと知っておって、そのつぼみをつけて用意をするのである。
木が知っておるわけではない、天照大神がつぼみはこのくらいにしておけ、こういうことにしておけ、ということを言われる。
その通り木は邪心が無いからして、このお導きのままにやっておるのであろうと思う。
雀が卵を生んで子を育てる、その子が生まれたら巣を作り卵を生むこと、それから卵をかえす。
この子が育つというと、それに餌を運ぶ。
子供がだんだん太ってくるに従って持ってくる餌がだんだん違ってくる。
育児法などというものは、読んだこともなければ、誰も聞かしてもらったこともないのであろうが ただ自然といわゆる本能となってなって、そういうふうになってくるのであるが、これは、天照大神のお指図である。
人間のように邪念がない。
心が澄みきっておるからして、この神様のお指図がすぐに心に移って来るのであろう。
自然の生物がみなこの邪念がなくて、心が澄み切っておって、天照大神のお指図、お導きがすぐにそこに移ってくるから、みなこれで生きておるのである。
何でも、地上のものでも生まれおちる もうこれは黙って親の乳をしゃぶる。
親は子供に乳を飲ませる みなこれはもう自然にそうなってくる。
今、日本にいまそろそろ帰るが、この鴨とか鶴とか、白鳥とかいうふうなものも、別に寒暖計や気象台に行ってシベリヤの天気や気温がどうのこうのと言うて聞くのではない。
もうシベリアの雪がどのくらい解けたか どのあたりに気温がどうなったかと言うようなことを心に感じて、暦を見るわけでもないが飛び立って帰って行く。
これも神様のお導きである。
逃げることも出来ないし、羅針盤や磁石があるわけでもないが、ただ誠に茫漠として見ること、考えることも出来ない。
あのシベリアの方を向いて間違いなく飛んで帰る。
あの小さな燕でも南方へ島を渡って帰って来る。
おそらく次の島と言うものは見えない。
見えないけれども、ただ無意識にどの方向というて飛んでいく。
伝書鳩を放つ 伝書鳩は放たれたら、これこそ全く方角がわからん。
磁石もわからん、地図も無い、けれども自分の巣の方を向いて帰ってくる。
何がそう、誰がそういかせるのか、 これ天照大神である。
こっちだぞ、こっち向いて飛べよと言われる、そのお指図が心が清浄であるが故に、それが移って、そして飛んで行く、帰って来るのである。
ただ人間は、邪念、邪心があって、このお声が聞こえない、わからない。
これは人間に邪念があるからである。
邪欲を持っておるのである。
又、人は病気をする。
やはり自分の心が悪い。
人間の身体というものは、いかに精密、精巧に作って頂いたこの身であっても、やはり半分以上は、又これは精神、心、霊の一緒になった問題であって、その霊が濁り、心が痛めば身体そのものが崩れてくる。
そうして故障を起こしてくる。
悪いことを考え、悪いことをし、神様のご意志に沿わないようなことをするからして、そこにそういうこの崩れと言うか、調子の崩れが出てくるわけである。
しかしそれでも天照大神は、心得が悪いから不埒な奴じゃもう知らんぞ、と言うことは決しておっしゃらない。
あのように、精密に身体を作って頂いたが、なお生まれた後も死ぬるまでずっと見守って頂いておるのである。
救世教で言うように、やはり身体の中には悪いことを考え、悪いことをすることもあるだろうし、悪いものを食べることもあるだろうし、自然自然とやはり何か身体の中に毒がたまってくる。
時々は、どうしてもこの毒の掃除をせなければならん。
それが救世教でいう、身体の浄化という、病気というものである。
全くその通りであろう。
やはり時々は、掃除をしなければならん。
これに対してもこの天照大神がやはりこの掃除をさせていただいておるのである。
長い間読んで頂き有り難う御座いました。
コーヒーブレークにして下て下さい。
先生の録音テープが必要な方は、成本会長の方に申し出下さい。